2010年09月06日

マザー・テレサ(1875−1965)…インド(ユーゴスラビア生誕<現マケドニア共和国>)/カトリック修道女

<幸福のはかなさ>

●父の死:テレサの場合

テレサの父ニコラは、真摯なカトリック教徒であり、手広く建設請負業と食料品の輸入業を営む、成功した実業家だった。人望は厚く、市議会議員にも選ばたこともあり、町のブラス・バンドのメンバーでもあった。歌うことが好きで、政治について語り合う友達も多かったという。

家庭は裕福で、客足が絶えず、愛と幸せに満ちていた。テレサの母ドラナは夫が帰って来る時間になると、髪をとかし服を着替えて、注意深く夫を迎え、子どもたちはそれを楽しそうに眺めた。ドラナは悩み苦しんでいる人たちを訪ね、お金や食べ物を提供することも多かった。困っている人が訪ねてきたら、決して追いかえさず、家族の一員として迎え入れた。ニコラは妻がいつも貧しい人を助けられるように、お金を用意していた。

が、テレサが9歳のとき、父ニコラは45歳で急死した。

ニコラは情熱的なアルバニア愛国主義者で、民族運動に深く関わっていた。自宅から260キロ離れたベオグラードで大きな集会に参加するため、元気に家を出ていったが、帰宅したときには瀕死状態で、突然血を吐いた。近くの病院に運び入れたが、もはや手のうちようがなく、翌朝、こと切れた。医者も家族も、毒殺に違いないと考えた。確かなことはわからないが、対立した政治グループに飲まされた毒が死因、とする説もある。

一家のあったスコピエの町全体が喪に服し、地位のある人が亡くなったときの習慣で、各学校ではハンカチが配られたという。

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●人生のポイント

ニコラの死後、一家の資産は行動経営者に横領された。一家が所有していたはずの土地も、その権利を立証できる書類がまったく残されていないことがわかった。結局、家族には住む家しか残らなかった。

母ドラナはひどく落ち込み、抜け殻のように無気力になり、何ヶ月も長女に頼りきって、茫然自失の状態が続いた。家父長制の強いアルバニアでは妻が夫の言いなりになっている一家が多く、女性が活躍できる場も多くなかった。

が、もともと気丈なドラナは、いったん立ち直ると頼もしかった。刺繍と織物を始めると、テレサの兄ラザールが織物工場と話をつけ、仕事は繁盛していった。

といっても、一家はもはや裕福ではなかった。それでもドラナは、もっと貧しい人々を世話することをやめなかった。母親の姿勢から、女性が苦難に立たされても、そこから逃げないで努力すれば、状況は変えられるのだということ、恵まれない状況におかれても人を助けようとする姿勢を学んでいった。

父の死から、一家の信仰はより強くなり、母子揃って地元の聖心教会の行事や奉仕に熱を入れていった。教会に図書館が作られると、テレサはたちまち本のとりこになり、たくさんの書物を読みふけって、カトリックの考え方や知識を吸収する。

祈りの言葉には「天におられる私たちの父よ」とある。テレサは亡き父についてはほとんど語っていない。が、知らず知らず、神への祈りに、亡き父への思いを重ねていたのかもしれない。

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●もし父親が生きていたら

父の手腕を受け継ぎ、ビジネス界でみごとにのし上がってゆくテレサ。信仰心と財テクは矛盾しないはずだと考え、聖書の解説書、子ども向けの絵本版、朗読カセットテープなどを次々発売、どれも大当たり。
人好きのする性格のテレサには素敵なボーイフレンドもぞくぞくと出現。母とともにファッションブランドを立ち上げ「デートのときはこのコーディネート」「帰宅した夫を迎えるための部屋着」など、ライフスタイルを提案しながらアパレル業界でその名をとどろかせる。後年は父の建設会社、貿易会社のCEOに就任、父譲りの愛国心を社内方針にも反映させ、アルバニアグッズを世界100カ国以上に流通させる。大口の寄付で教会や学校も設立しつつ、アルバニアの大富豪一族の稼ぎ頭として世界にその名をとどろかせる。

Mother Teresa.jpg●プロフィール・参考文献


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アルベルト・シュヴァイツァー(1875−1965)…フランス(ドイツ生誕)哲学者、神学者、オルガン奏者、医師

<時を味方に>

●捕虜生活:シュバイツアーの場合

アルベルト・シュバイツアーといえば、アフリカの黒人たちの病苦を医療で救った人物として知られる。だが、彼が医学の道を志したのは30歳になってからのことだ。アフリカに出発したのは、38歳のとき、1913年のこと。

だが、翌14年、第一次世界大戦が勃発。シュバイツアーは妻とともにドイツ人捕虜として自宅に軟禁され、医療活動は禁じられてしまった。最初の拘禁は、パリに住む友人たちの嘆願などにより3ヶ月で解かれたが、ヨーロッパの金持ちからの援助は徐々に途絶え、器具や薬品を病院に揃えるための借金は膨らんでいった。

債務返済のあてがないまま、今度はシュバイツアー夫妻にフランスの捕虜収容所に入るようにと命令が下る。以降、夫妻はあちこちの収容所を転々とさせられる。

収容所の中は、様々な病気が流行していた。精神的に弱った人々は食欲を失い、栄養失調に陥っただけでなく、軽い病気にかかっても、たちまち重症になってしまった。シュバイツアーも赤痢にかかり、長い間苦しみ続ける。

サンーレミでは、ゴッホの入っていた精神病院が収容所となっていた。居心地はたいへん悪く、滞在中の気候も厳しかった。シュバイツアーはここでしばしば熱を出し、疲労に苦しんで、手術を必要とするほどに衰弱してしまった。戦争が終わる頃には、体調はひどく悪く、負債ばかりが山積みで、生活費さえどうすればいいのかままならないという状況に陥っていた。



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●人生のポイント

捕虜になったシュバイツアーは、著作に専念する時間ができたので、本を読み、思索にふけった。キリスト教を信じ、愛を説く白人たちの間で戦争が起きるのはなぜか、と考えるうち、神秘主義研究をまとめようとしていた予定を変更して、現代文化の退廃について考えるようになった。

最初の拘禁を解かれてから、シュバイツアーは知人の治療のため、カバの群れが連なる川を船で進んでいた。突然、彼の頭の中に、「生命への畏敬」という言葉がひらめいた。生命を怖れ、敬うことこそが善、生命を傷つけ、その成長を妨げることを悪、とする「生命への畏敬」という考えこそ、倫理の根本法則だと思い至った。そしてこれは、人間の人間に対する関係だけでなく、すべての生きものに適用されるものだと考えた。これこそ人類に理想とエネルギーを与え、社会的にも精神的にも矛盾なく平和をもたらす根本的な考え方だと確信し、「生命への畏敬」は、シュバイツアーのモットーになった。

また、収容所でシュバイツアーは学者、商人、芸術家、銀行家、建築技師など、様々な国のあらゆる職業の人間と知り合い、専門家たちの話を聞いて、実地に役立つ知識を学んだ。第一次大戦が終わると、戦争で潤うスウェーデンの大僧正から、倫理に関する連続講演を依頼され、シュバイツアーのために講演と演奏会を手配し、本の出版を勧めた。このときの講演や出版物がもとで多くの人々がシュバイツアーの仕事を知り、援助を申し出た。

こうしてシュバイツアーは生涯を捧げるアフリカの地へ再び向かうことができたのである。



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●もし捕虜にならなければ

経営、建築、穀物栽培などの知識もないままろくな賃金も払わずアフリカの住民たちをこき使って病院の修復や開墾に乗り出し、白人至上主義的な思想を露骨に表に出すシュバイツアー、黒人たちからひどく反感を買う。赤痢が蔓延すると、よそ者白人シュバイツアーのしわざだという根も葉もない噂を立てられる。なにもかも諦めがちになって、現代人の精神的退廃を憂い、人類は退廃していく、という悲観的な考えをまき散らす。若き日のシュバイツアーの有能ぶりを見込んで支援をしていた人たちも、彼の生き方をばかげたものに思い始め、一人また一人と疎遠になり、金銭面も精神面もいたたまれなくなると、帰郷。結局晩年は昔取った杵柄、名高い神学者及びオルガン奏者として、家族とともに安逸に暮らし生涯を終える。
Albert Schweitzer.jpg●プロフィール・参考文献
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2010年07月10日

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817−62)…アメリカ/作家、思想家

<まずはひとりで>

●生涯独身:ソローの場合

ヘンリー・D・ソローが22歳の時に恋したのは、エレン・シューアルという牧師の娘だ。当時のエレンはソロー家を訪れ、田園の散歩、ボートでの遠出、本の朗読と議論などを通じ、ソロー兄弟と長い時間を過ごした。兄のジョンもエレンを愛しており、ジョンがプロポーズに失敗した後、ヘンリーも手紙で求婚するが、断られてしまった。エレンの父親は、ソロー兄弟を理想主義的で進歩的過ぎると考えていたので、それが父親っ子のエレンの決断に影響したのかもしれない。
この頃、ソローは「思いもかけず 囚われた」「愛し方がもっと弱かったなら 愛せたかもしれない」といった言葉のある「共感(シンパシー)」という詩を書いた。表向きにはエレンの弟に捧げられたものだとされるこの詩は、実のところ、エレンへの愛を表現したものだといわれる。
「共感」の詩から12年後、ソローは日誌に「自分はひょっとして、ある感覚が欠落しているのかもしれない」「若い女性と半時間話しても、彼女が整った顔立ちをしているというだけの理由で、喜びに出会うということはない。若い女性たちとの社交(ソサイエティ)は、私がこれまで試みた最も詮無いことであった」などと記した。30歳の時ソローは、45歳のソフィア・フォードという女性からの求婚を断っている。年齢差は気になるところだが、もてない男、というのではなかったようだ。
死の床でソローは、エレンのことを「ずっと愛していた」と語った。エレンはソローの死後まもなく、牧師と結婚し幸せに暮らしたが、ソローの早く亡くなった兄も姉も妹も、生涯独身を貫いている。

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●人生のポイント

40歳になってから「自然は僕の花嫁」「僕はヒイラギガシと恋に落ちた」などと書き綴っていたソローは、自分の最大の技能を「ほとんど欲しないということ」だとしている。『森の生活』に「貞潔は人間の開花だ。そして天才、英雄的行為、聖性などといわれるものは、すべてその後に続くさまざまな果実に過ぎない」とあるように、ソローは性的な放逸をだらしなく不潔で人を不浄にするもの、節制は活力をもたらし人を鼓舞するものと考えていた。
そして、豊かに生きる最も確かな道は、必要なものを少なくすることだと、ソローは早くから意識していた。「人は、かまわないでおける物事の数に応じて豊かなのである」「一人の人間による以外には何も生み出すことはできない。助けを望むものはすべてを望む」「まず一人でしなければならない。そうすれば成功を私たちは共に喜ぶことができるだろう」と記す彼が、配偶者や子どもにふりまわされることのない生活を選んだのは、自然なことだった。
実際、ソローが『森の生活』の着想を得た森の中での2年間の生活も、人頭税の納付を拒否して逮捕・投獄されたのも、たった一人でのことだった。「社会の再形成〔改革〕(リフォーム)という問題では、私たちは団体をほとんど信じていない。この社会)は最初その上に形成されたのではなかった」と述べたが、ソローは誰かの協力を頼る前に、ひとりひとりが力を発揮することの大切さを固く信じていたのである。

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●もし結婚していたら

隠遁生活中のウォールデン湖畔にソローの後の妻がお弁当を持参したびたび参上、ケープ・コッド岬で繰り返される頻繁なアウトドアデート。恋が、愛が、女性がいかに素晴らしいかに感銘を受けて著されたのが『ウォールデン・森のピクニック』。おいしいサンドイッチのつくりかたから、自然の中で男女が交わる方法、木の実の選び方やレシピなど、使える情報が体験に裏打ちされて事細かに記され、実用書として広く読まれる。
また、人頭税を払わず投獄されたソローに対する妻の対応は『相手を気持ちよくさせる刑務所での面会の仕方』『投獄された家族を励ます手紙の書き方』といったハウツー本にまとめられ、ガンディー、キング牧師の家族も啓蒙、日本でも極道の妻のバイブルに。

Henry David Thoreau.JPG
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レイチェル・カーソン(1907-64)…アメリカ/生物学者

<死後があるから>

●闘病・カーソンの場合


「『沈黙の春』の裏にはなかなかの物語があります。ほんとになんという病気のカタログでしょう! 迷信深い人だったら、不吉な力が働いて、なんらかの方法で本を完成させないようにしていると簡単に信じてしまうでしょうね」

カーソンが友人にこんな手紙を書いたのは、『沈黙の春』の出版される1962年のことだ。このときは虹彩炎で目がほとんど見えず、一日に二、三時間ほど仕事をするのがやっとだった。

『沈黙の春』執筆に取りかかった1958年から、カーソンは病気に苦しんでばかりいた。慢性の副鼻腔炎を長く患ったかと思えば、1960年初頭に「十二指腸潰瘍」だと友人への手紙に記している。次にはウイルス性の肺炎、そしてまたしても副鼻腔炎に苦しむ。

『沈黙の春』で癌について二章を割き記されているが、この部分を書き終えた頃は、担当医に手術を勧められている。このときカーソンは、すでに癌に罹患していたのだ。左側のリンパ腺と胸のかなりの部分の筋肉が切り取られたカーソンは、自分の寿命がもう長くはないと知った。

癌治療の放射線療法に慣れ始めた頃、軽い膀胱炎で症状が始まり、ブドウ状球菌の感染が見つかる。両足は静脈炎になり、炎症が起きて、歩くことも立つこともできないほど激しい痛みに襲われた。入院、病院への通院などで、『沈黙の春』はそのまま沈黙で終わってしまうのではないかと思われるほどに停滞ばかりを繰り返した。

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● 人生のポイント

「先のことを少しでも考えるときには、体がばらばらに砕けてしまいそうになるの!」時にはこんな弱音を吐いたカーソンだが、病の中でも前向きな決意と自信を保とうと試み続けた。「このような経験をして、ただ一つよかったと思えることは、仕事から長いあいだ離れざるを得なかったことによって、いつも捜し求めつつ手にすることができなかった、より広い展望が得られたことではないかと思っています。今はすべてのことを単純に、おそらく、より簡潔に、あまり詳細に立ち入らないで書く方法を探しています」と、病の床から手紙に記している。

闘病中、「もし私の時間が限られているのなら、何よりも私が望むことは作品を完成させることだ」と、目標ををはっきり定めた。目が見えなくなった時期は、自分の書いた言葉を耳で聞いて原稿を確認した。ここで韻律を整え、簡潔明瞭を求めて書き直し、文章は詩的な美しさを増した。

カーソン54歳のとき「沈黙の春」が発売されると、文章中で告発した薬品の利権に関係する化学産業界や農務省から激烈な批判を浴びたが、嵐のような批判にさらされ続ける期間は56歳で息を引き取るまでの三年で済んだ。「私が、私の知らない多くの人びとの心の中にさえ、そして美しく愛すべき物事との連想を通じて、私は生き続けるだろうと考えるのはうれしいことです」と、最後まで気丈に構え続けたカーソンは、死ごときで自分の書いたことの影響が消えるわけではないとわかっていた。

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● もし患わなければ

細部ばかりがやたらと強調され、専門用語だらけの小難しい言い回しがそのまま使われた『沈黙の春』は一部のインテリだけにしか読まれず、一般大衆の多くにはカーソンの意図が伝わらない。化学企業はパンフレット配布、新聞、ラジオ、テレビを利用し、農薬のイメージを守り、回復するため大量の資金を投入。こうしたあの手この手が時とともに世論を侵食し、多くの人に「『沈黙の春』はトンデモ本」「レイチェル・カーソンは老いて呆けた神秘主義者」というイメージが定着。世話好きのカーソンは、自分が病まなくとも、親戚の介護や育児でいつも手一杯だったが、バッシングへの反論に疲れ果て、人間嫌いの偏屈老人となり隠遁。誰からも忘れられた頃、孤独な死を迎える。
Rachel Louise Carson.JPG
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2010年04月22日

アルベール・カミュ(1913‐60)…フランス/小説家、劇作家

<女も口実>

・離婚:カミュの場合

カミュが21歳のときに初めて結婚したシモーヌ・イエは、もともとカミュの友人のフィアンセであり、人の目を惹く大変な美人だった。カミュの仲間が証言するところによると「僕たちはみんな、彼女に少し惚れていた」。通りを歩けば男たちは、最新流行の服を着たシモーヌのしなやかな体に、赤みを帯びたブロンドの髪に見とれた。恐ろしくつばの広い帽子、踵の高いハイヒール、極端に長いパイプなど、その華美な服装はしばしば場違いな状況も多かったようだ。


風変わりで、気まぐれで、誇張癖のある女性だったといわれるシモーヌは、14歳のとき月経痛を鎮めるためにモルヒネを使ったことがきっかけで、麻薬常用者になっていた。結婚後も、シモーヌの態度や着るものは突飛さを増していくばかりで、同じ服を二度着ることはめったになく、ドレスの下にはいつも、なにひとつ身につけていなかった。カミュの家に夕食に招かれた仲間は、透明に近い薄手の服を下着なしに身につけたシモーヌの挑発を語っている。こうした奇行や入院により、結婚生活はすさんでいく。

また、以前からシモーヌは、麻薬を手に入れるために若い医者に色目を使い、体を提供していると噂されていた。かみ合わなくなった二人の関係を立て直すため、友人とカミュ夫妻三人で旅に出たとき、カミュは宿泊先に届いたシモーヌ宛ての手紙を開封した。そこには医者からの麻薬提供の申し出と、シモーヌと手紙の差出人の仲が、患者と医者の関係を越えた深いものであることが読み取れた。

このときにカミュは、シモーヌとの別れを決めた。


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・人生のポイント

カミュには人生の早いうちから、世界は自分の思い通りにならないと認識せざるを得なかった。幼い頃に父を亡くし、母はほとんど口を利けず、目の前に広がるのは移民たちの貧しい生活。当時不治の病とされた結核の診断も受けている。


そんなカミュにとって、幸福の源泉となりそうなのは、恋愛だった。カミュは常に女友達に恵まれていた。シモーヌとの生活が破綻し始めたときにも女友達二人と共同生活をする。演劇活動のため、ファンの若い美人をあちこちでスカウトするのを楽しみ、二度目の結婚後も、大勢愛人がいたと噂されている。


が、カミュはただ自分の利欲のためだけに女たちと交際したのではない。離婚後、カミュは死ぬまでシモーヌを助けるよう懇願されるが、援助を渋ったことは一度もなかった。親しい女性たちとは、最後まで親交があったが、相手に溺れたり、盲目的に追い求めるような付き合いはせず、理性を失うことはなかった。


カミュにとっての幸福は、世界が思い通りはならないという真実を明晰に見通すことであり、死を前にしたとき、充実した生を送ったという自負を持つことだった。
「大切なことはただ、幸福への意志であり、いつも現存しているある種の巨大な意識なんだ。あとは、女にしろ、芸術作品にしろ、世俗的な成功にしろ、口実でしかない」(『幸福な死』)と記されている通り、女性は安定した幸福をもたらす絶対的な存在ではない、とカミュは思っていた。こうした考えは、シモーヌの存在によって、強い確信となったように見える。


結婚も共産党への入党も、カミュにとっては生をより謳歌し明晰さを保ちながら生きるための手段でしかなかった。だからこそ、離婚も除党も、カミュから幸福を奪うことにはならなかったのである。

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・もし離婚していなければ

「世の中は思い通りにいかない」ことには気づいたカミュは、妻シモーヌへの愛によって自分自身の生を謳歌することを自らに誓う。以来、シモーヌを神のように崇め、妻の身勝手から生まれる自分の苦しみを、すべて与えられた試練として受け止める。麻薬を提供する医者と次々肉体関係を持つ妻の奔放さも、自分の至らなさの証だと考え、ひたすらわが身を責める。

こうした辛い結婚生活を送るカミュに同情し、次から次へと言い寄る女たちが現れる。カミュは彼女らに泣き言は打ち明けるが、最後までシモーヌ一筋を貫き、浮気は自制。男を振り回し好き勝手やりたい放題の妻を理想の女性像、ひたすら妻に尽くし禁欲的に生きる自分を理想の男性像と考えるようになる。

やがて、気の触れた妻を介護しながら、自由を謳歌する美しい外見の女性が狂気じみてゆく過程と、結婚生活に翻弄され自らの能力をすべて妻に捧げる男性の悲しみを、持ち前の文章力を生かして小説中に美しく昇華することに生きる糧を見出す。後年はフェミニストたちにとっての模範的男性作家として、不動の地位を獲得。
albert camus.JPG
posted by 73 at 23:52| Comment(6) | TrackBack(0) | 離婚 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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