2005年06月28日

ベンジャミン・フランクリン(1706-90)…アメリカ/独立宣言起草委員

<すべては金なり>

●貧乏出身:フランクリンの場合

貧しいくせにどんな家族計画を考えたのか知らないが、ボストンに17人も子供を作るロウソク屋の夫婦がいた。この夫婦の間に、15番目に生まれたのがベンジャミン・フランクリンだ。

若き日のフランクリンにとっては「より多くの金が手に入るかどうか」が第一の行動基準であり、それ以外の価値観は許されていなかった。蜜蜂が蜜を、アリクイがアリを求めるように、彼はとにかく金を求めて生きた。

8歳でフランクリンはラテン語学校に入学する。この学校の卒業生の多くは牧師となるが、それでは「将来ロクな暮らしができず、学費も出せないから」と、読み書き算術の学校へ移される。聖職の栄誉より実益第一、というわけだ。

が、こちらも10歳のときに辞めさせられ、父の仕事、ロウソクと石鹸の製造を手伝う。幼い彼がそうせねば、一家は暮らしていけなかったのである。

日本で言えば小学生が中学生になる12歳で、フランクリンは兄の経営する印刷所で働き始めた。17歳になると、印刷工の職を得ようとフィラデルフィアに移り、翌年にはさらに印刷技術を磨くため、イギリスにも渡っている。

そんなフランクリンも、印刷屋の職場では酒代を2、3週間ケチったため、仕事仲間から仲間外れにされ、小さな嫌がらせを繰り返されるようになった。渋々金を払った彼は、この体験により、吝嗇なばかりではダメだと悟ったそうである。

酒を飲む年までそんなことも知らずにいられたなんて、羨ましい気もする。

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●人生のポイント

ベンジャミン・フランクリンってのはジャニーズか何かのグループ名ではないか。そう疑いたくなるほどに、彼の業績はあまりに多い。

彼は独立宣言起草委員となり、アメリカ合衆国憲法の制定に参加し、アメリカ初の巡回図書館、アメリカ哲学協会、フィラデルフィア・アカデミー(ペンシルバニア大学の前身)を設立し、雷と電気の同一性を証明し、避雷針、印刷術、気球、落下傘、眼鏡、潜水艇、前開き式鉄製ストーブ、楽器、航空郵便などの発明をした。

このやたら幅広い活躍ぶりが何を目的にしたものかは一見判然としない。が、どれも貧しさから逃れ、より多くの富を手にするための手段だと考えれば、少しはわかりやすいかも。

彼の資本主義精神がよく表れているのが、1732年に発売されたベストセラー『貧しいリチャードの暦』。これは、格言・教訓つきカレンダーの第一号であり、本を買わない貧しい庶民をも啓蒙し、知識を伝える手段として彼が考え出したものだ。「時は金なり」などの富第一主義的な彼の名言は多くがここから生まれた。

セコい気分になりたいときにピッタリな、彼の格言をいくつか挙げておこう。

「怠け者の足ののろさよ、貧乏がすぐに追いつく」「早寝早起き、健康のもと。財産を殖やし、知恵を増す」「美食家の末は乞食」「うまい者、作る阿呆に食べる利口者」「金を借りに行く者は、悲しみを借りに行く」「引っ越し3度は丸焼け同然」……

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●もし貧乏出身でなかったら

牧師となり礼拝の効率を徹底追求。「日曜の朝がラクになった」と大好評の巡回教会や、小難しい討論をしながら洗礼や懺悔もできるアメリカ哲学教会を設立。さらに、教会に生命保険の代理店制度を持ち込み、「誰かが死ねば葬儀代で、生きれば保険料で」確実に稼げる教会の運営方法を編み出す。ルターに憧れて神の啓示を受けようと落雷見物をするが、雷に撃たれた拍子に思わず電気を発見。十字架タイプの避雷針を開発し普及させると、無心論者も十字架に頼るようになりローマ法王も大喜び。右の頬をぶたれたら瞬時に左の頬を差し出せる便利な電化製品を発明し、より効率的に神の教えを大衆に伝達するため、娘をアレサと名づけてゴスペル・シンガーに。
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「寝たいなら墓場に入ってからでも少しも遅くはない」
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2005年06月24日

アンリー・デュナン(1828-1910)…スイス/赤十字創立者

<赤字が生んだ赤十字>

●破産:デュナンの場合

デュナンのような人が経営する会社で働いてはいけない。彼の資質はまったく事業向きではなかったのである。

裕福な家庭に生まれたデュナンは、アルジェリアに製粉会社を建てようと、勤めていた銀行を辞め、30歳で会社を設立する。が、共同経営者も現地民もデュナンの信頼を裏切り、まじめに仕事をしなかった。水利の便が悪く、水不足もたたって借金は増える。

これではいけないと思ったデュナン、盲目的に傾倒していたナポレオン皇帝に、製粉会社の水利の改善を直訴しようと考え、イタリア統一戦争中の北イタリアに赴く。直訴で会社が何とかなるなら、みんなそうする気がするけど……。

ここでソルフェリーノ戦の惨状を目のあたりにし、「こんなむごい状態をとてもほおってはおけない」と、1ヶ月にわたって救護にとどまる。どうやら自分の会社の惨状は平気でほおっておけるようである。結局、皇帝への直訴にも失敗する。

その後、デュナンは隠遁し、戦場での中立的な救護機関設置の必要性を訴えるため『ソルフェリーノの思い出』を書き上げる。やはり、会社経営なんてどうでもいいのだろうか。本の反響から翌年には、国際赤十字が誕生する。

皇帝との謁見もかない、激励を受けるが、事業は成就しなかった。会社の決定的財政危機でパリの相場に手を出したデュナンは破産宣告を受け、赤十字国際委員会に辞表を提出する。

このぶんだと、最初の直訴が成功していたところで、会社はつぶれていただろう。

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● 人生のポイント

水利を直訴で改善できると考える人も珍しいが、直訴を目的にした旅路で戦地の救護活動を1ヶ月もやってしまう人も珍しい。自分の会社が危機にあるのに1年隠遁して本を書く人、というのもいなくはないだろうが珍しい。この珍しい行動の連続が、国際赤十字などという珍しいものを生んだわけである。

デュナンは破産し辞職してからも、赤十字への助力を惜しまなかった。が、経済的に落ちぶれたうえに病身となり、講演の最中に失神を繰り返すようになる。

富裕な軍楽隊関係の音楽家の未亡人であるカストナー夫人と出会い、彼女からの援助を受けつつなんとかやってゆくのだが、この交際は後に、デュナンへの中傷を招く。ヒモみたいなことしてる男が博愛を説くなんて……といった、いつの世にもありがちなやっかみだろう。そうでなくても、度々失神する講演者の話に説得力は感じにくい。デュナンの発言の影響力は、徐々に薄れていった。

奴隷問題などを取り上げた1874年頃には、デュナンの提案は黙殺された。肉体的にもボロボロになった彼に、直訴だの辞表だのをやってた頃の元気はなかった。

夫人亡き後の彼は、福祉施設で静かに暮らした。1901年の第1回ノーベル平和賞受賞がなければ、彼は最期まで生活保護を受けつつ、ひっそり一生を終えたことだろう。

自分の利益より人助けを優先させると、事業どころか日常生活すら人並みにやっていくのは難しい。まあ、ここまでやる人はめったにいないだろうが。

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●もし事業家として才能があったら

製粉会社からの帰り道、くずかごから食べ物を拾う浮浪者に遭遇。この光景に心を痛めたデュナン、製粉した小麦粉で大量のパンを作り、貧しい人たちに分け与える。やがてスイス及びその周辺の福祉施設で「パンのおじさん」としてデュナンはスター扱いされ、奉仕の精神を代弁する「デュナン」ブランドのパンは世界的に販売網を拡大。所得税対策のため、デュナンの肖像入りヘリコプターを使って戦場の兵士たち、らくだを連れた砂漠の旅人たち、食糧難に喘ぐ難民たちの上から、デュナン印のパンをばら撒く。と、未開の地を中心に世界各所で「神の使者デュナン」伝説が発祥。日本でも20世紀終盤に「『アンパンマン』のモデルはデュナン」説が広がる。
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「負傷して武器を持たない兵士は、もはや軍人ではない」
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2005年06月21日

アルフレッド・ノーベル(1833-96)…スウェーデン/発明家

<遺伝子でなく賞遺す>

●生涯独身・ノーベルの場合

ダイナマイト爆弾を発明したノーベルは、死んだ後まで爆弾発言女にゆすられた。

43歳のとき、彼はオーストラリアの花屋で働く売り子ゾフィー・フェス(当時20歳)と出会い、恋に落ちた。典型的庶民であるゾフィーと世界的な財産家のノーベル、年齢のみならず知性と教養の落差は大きかった。美しいゾフィーに貴族的な洗練を与えようと、彼は必死に尽くす。

が、無責任で気まぐれなゾフィーは、ノーベルの与えた小遣いで贅沢な暮らしを覚え、ますます気ままな女となる。さらにはノーベルの不在中、若い将校と恋をして妊娠。ここでやっとノーベルは、彼女を諦める。

ゾフィーは将校と結婚した後も、ノーベル名義で莫大な借金をし、夫婦別々にノーベルをゆすり続けた。

悪女は死者に対しても悪女である。ノーベルが死ぬと、彼の遺言で遺産を得られなくなった親族が不満を示すドサクサのなか、誰もその存在を知らなかったゾフィーが名乗り出て、高額を要求した。さらに、ノーベルからの手紙216通や写真などを、遺言執行者に法外な値段で売りつけた。脅迫とスキャンダルを恐れた執行者は、渋々それを買わざるを得なかった。

ノーベルは財産を近親者に相続させることを「怠けぐせを誘発し、人類の堕落に貢献する」と、反対していた。花売り娘を贅沢暮らしでアバズレ女に変貌させてしまった男の言葉は説得力に満ちている。彼が生涯独身を貫いた最大の理由は、ゾフィーとの恋に懲りたためだろう。

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● 人生のポイント

生前のノーベルは「破壊王」「悪人」「死の商人」といった悪評を浴びていた。彼も自分自身を「この世に生を受けた瞬間に、慈悲深い医師の手で絞殺されたほうがマシだった」、自分の発明品を「低劣な殺人道具に堕したるもの」と評した。

ノーベルは戦争を「惨事の最たるもの、あらゆる犯罪の筆頭」と考え、「ひとつ強力な爆薬か兵器を発明し、それがものすごい破壊力を持つとわかれば、戦争などは以降一切起こらなくなるだろう」と思っていたのだ。が、彼の発明品が兵器として使われた以上、ダイナマイトの発明や約355種 の特許は、本人にとって名誉でもなんでもなかった。

そんなこんなで名誉称号や表彰に類することを一生軽蔑したノーベルだが、彼が偉人たる最大の理由は、彼の遺産と遺言から設立されたノーベル賞、にあるだろう。世界平和と科学の進歩を願う彼の強い気持ちがこの賞を生んだことはもちろんだが、生涯を独身で通した彼には莫大な遺産を相続させたい人物がいなかった、というのも賞が無事成立したポイントである。

仮に今、彼が生きていたらどう思ったろう。原爆や水爆の存在に嘆きつつも自分よりひどい奴がいることや、彼の名が栄誉とともに世界中に響き渡っていることに、ホッとするだろうか。それよりは、自分の考え出した賞が世界平和にあんまり貢献していないことや、昔自分がアバズレ女に書き送ったラブレターの内容を思い出し、死にたくなるんじゃないだろうか。

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●もし結婚していたら

妻は世界一セレブなミセスを目指し、ひたすら金遣いを荒くするばかりで、巨万の富を持つ夫を「もっと稼げ」と急き立てる。妻の愛人は彼女のはからいでノーベルの会社ノーベルインダストリーで重役の地位を与えられるが、仕事に没頭するノーベルは彼が恋敵であることにすら気づかない。やがて妻は愛人の子を産み、稼ぐだけ稼いだ夫に前代未聞の保険金をかけた後、爆発事故に見せかけ殺害。ノーベルの死後、愛人と元妻は盛大な結婚式を挙げるが、権威あるノーベルの名はそのまま利用。悪名名高い爆弾一家として知られるこのノーベルファミリー、世界のどこかで戦火が生じるたび、莫大な富をもたらす戦争開始の原因を作った人物にこっそり献金進呈。
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「尊敬されるには、尊敬に値するだけでは不充分」
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2005年06月17日

チャールズ・ダーウィン(1809-82)…イギリス/進化論提唱者

<学問の道も適者生存>

●中退:ダーウィンの場合

若い頃のダーウィンは、ボンボンのバカ息子を絵に描いたようであった 。

彼は上流の出だ。祖父は著名な進化思想家エラスムス・ダーウィン、母は陶器製造で有名なウェッジウッド家の出身だった。優秀な医者だったダーウィンの父は、自分と同じ医学の道を歩ませるため、当時の医学名門校・エジンバラ大学に息子を入学させた。

繊細なダーウィンは、麻酔のなかった当時の外科手術の残酷さに耐えられず、人の血を見るとめまいを起こした。やがて、解剖学に激しい嫌悪と恐怖を覚えるようになり、医学の他「2年目に地質学と動物学の講義を受けたが、この講義が与えた唯一の影響は、生きている限り断じて地質学の本は読むまい、もしくは、この科学の研究は一切すまいという決意を固めさせたことだった」らしい。

その後も生涯、彼は興味のないことに集中できなかった。まったく医者になる気がない息子を父も理解し、2年でダーウィンはエジンバラ大学を中退する。

後のダーウィンは「父は私に『おまえは学問が嫌いで遊んでばかりいるから、ダーウィン家の後を継ぐことはできまい』といった」「全部の先生からも父からも、しごく普通の子供で、むしろ知能は平均以下だと見られていたと思う」など、幼い頃の落ちこぼれぶりを父からの視点で記した。ずっと彼にまとわりついたのがこの「やたらうるさくエラそうなオヤジのプレッシャーにおびえるありがちなドラ息子」的様相である。

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●人生のポイント

その後、またしても父の介入による投げやりな進路選択が行われる。

今度は牧師になるべく、ダーウィンはケンブリッジ大学神学部に入学させられた。これは当時、良家の子弟は医者か軍人か牧師になるのが当然で、ダーウィンが軍人になることを嫌ったためという、情けない理由による。

大学での彼は、植物学の講義以外は勉強に手を抜き、射撃や狩猟、酒や乗馬や酒、トランプ遊びや女遊びにうつつを抜かした。ここまでは、ダーウィン家に退化が生じたかのようだ。

が、転機が訪れた。大学内で出会った植物学者ヘンスローの影響により、ダーウィンは動物学、そして生きている限り断じて手をつけないと決意した地質学にまで関心をもつようになる。在学中にヘンスローの勧めで短期間の地質学研究旅行に同行し、研究者としての基礎も学んだ。

大学卒業後のビーグル号による世界周航も、ヘンスローが艦長フィッツ・ロイにダーウィンを助手として推薦したものだ。後の著作『ビーグル号航海記』『サンゴ礁の構造と分布』は、このときの調査や観察をもとにしている。

生物進化という発想も、ビーグル号での航海中に生まれた。説得力のある理論化にダーウィンはそりゃかけすぎだろうと思われるほどに時間をかけて、23年後、主著『種の起原』を発表する。

こうしてみると、皮肉にも神学部への入学が、神を否定する進化論を生むきっかけになったことになる。一冊に23年を費やす彼には、遠回りもやむを得まい。

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●もし中退しなかったら

嫌な仕事をしなくったって、資産家の息子だから食うには困らない。「十分な教育を受け、日々の糧のために働く必要のない人々の存在は、いくら評価しても評価しすぎることのないほど重要である。高度に知的な仕事はすべて彼らによってなされている」と述べた彼のことだから、上流階級の特権を生かし『種の起原』に匹敵する「高度に知的な仕事」をやり遂げたりして。

ちなみに、晩年のダーウィンは、めまい、動機、頭痛、嘔吐などの症状に悩まされることが多く、少数の親しい友人を除いて交際を絶って引きこもり、自説に対する批判に自分で反論に立つこともなかった。てことは中退しようがしまいが、最終的に彼の生活って、そんなに変わらなかったのかも。

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「私は、できるだけ一生懸命に、できるだけよくやったのだ。誰もこれ以上にはできない」
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2005年06月14日

魯迅(1881-1936)…中国/思想家

<落ちぶれ騙され罵られ>

●父早死に:魯迅の場合

病気がちで酒とアヘンを好んだ父を、魯迅は愛した。その愛ゆえに、魯迅はしょうもないものに多大かつムダなエネルギーを注いでしまった。

もともと魯迅は裕福な官僚地主の家に生まれた。ところが魯迅が12歳のとき、いつまでも国家試験に合格しない魯迅の父にいらだった中央高官の祖父が、試験官に賄賂を贈ろうとした。これが明るみになり、祖父は投獄されてしまう。祖父の刑が軽減されるようにと土地を売った魯迅一家は、まっさかさまのどん底生活に突入した。

この翌年、結核の父は国家試験どころではなく、喀血して床に伏した。一見、家族の疫病神のような父だが、息子にとってはマイペースで魅力的な読書家だったようだ。魯迅は父の病を治すため、質屋と薬屋に4年間 あまり、毎日のように通った。

かかりつけの有名な漢方医は、父親を治す薬の材料に「つがいのままのコウロギ」「3年霜にあたったサトウキビ」「冬の葦の根」など、手に入りにくいものばかりを必要だという。魯迅はその言に従い、材料を必死に探した。もちろん、こんな処方に効果はなく、父の病気は重くなる一方。

ついに父が死を迎えたとき、魯迅は16歳だった。葬儀や借金のため、家族の土地も財産もほとんど残らなかった。

が、妙なものを探しまくらされ続けた魯迅の中には、怒りが残った。彼は「ちっきしょー、あの時自分が3年霜にあたったサトウキビを見つけていれば……」などと自分を責めるほど、愚かではなかった。

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●人生のポイント

魯迅は自分がアホだったことを自覚した。そして自分だけでなく、自分の住む国、中国のアホさ加減にも目が向くようになった。

後に彼は「今でも中国では私と私の父、そしてあの医者のように、無知のために騙し騙され苦しんでいる人がいる」と記した。父の死により、漢方医が病人を食い物にし、薬屋と結託して金儲けをしていたことを気づいたのである。

さらに、魯迅は没落がもとで生じる世間の冷たさを味わった。彼は父のない弱みにつけ込まれ、「乞食」呼ばわりされ、「家のものを盗んで売る少年」と噂を立てられた。「強いが勝ち」、とする社会に起こりがちな現象だ。

封建的倫理のもとに弱い者イジメや、いわれのない嘘がまかり通ることに怒りを募らせた魯迅は、世俗の価値観にそむき、当時のエリートコースである科挙→官僚への道を棄てる。そして試行錯誤を重ねつつ、英語→ドイツ語→西洋医学→文学を学び、中国に存在する「馬々虎々(マーマーフーフー)」(欺瞞・虚偽を含むいい加減で不真面目な態度)と戦い続けることになる。

現在も中国では、「魯迅精神」「阿 Q 精神」などの言葉に魯迅の精神が反映され、馬々虎々との戦いが行われている。魯迅は日本に留学した頃、中国人は低脳児だとバカにされてしまう現状を冷静に眺めていたが、このままいくと、日本のほうがいい加減で不真面目な国になったりして。

それはいいとしても、漢方薬とかは、ちょっと残しておいて欲しい気がする。

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●もし父親が生きていたら

交尾中のコオロギを探すのに時間をとられながらも科挙の受験勉強をし、合格を重ねエリート街道まっしぐら。結局祖父と同じく中央官僚に着任するが、里帰りするたび故郷の紹興酒と魚料理に舌鼓。酒好きの父親と酌み交わしゴキゲンになったはいいが、酒で苦しんだ自分の過去をすっかり昔話と見なした父とともに、親子でアルコール中毒の道へと突き進む。ここで魯迅は若き日のコオロギ探しで培った柔軟かつねばり強い体力でピンチを脱し、アル中患者の希望の書『強靭日記』を出版。父親は上質なアヘンで危機を切り抜け、息子に負けじと『アヘン正伝』を記す。

父親がもっとずっと早く死んでいたら、ぬくぬくと地主の地位に安住していたかも。
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「地上にはもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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2005年06月10日

チンギス・ハン(1167-1227)…モンゴル/モンゴル帝国創設者

<嫁探しの代償>

●父早死に:チンギス・ハンの場合

チンギス・ハンと聞いてモンゴルだの遊牧民だのを思い浮かべ、ほんわかのんびりさせられていると大きく間違う。1000年ほど昔は狩猟と戦争が似たようなものだと考えられており、彼が生きたのは叙情酌量もへったくれもない弱肉強食の無法世界だった。

9歳のテムジン(チンギス・ハンの幼名)は、父と一緒に嫁探しをし、見栄えのよい娘ボルテをみつけ、婚約した。

テムジンの父はモンゴルにおける次の部族長の有力候補者だった。彼はテムジンの相手を決めると、当時の慣習どおりに息子を婚約者のもとに残して去った。その帰り道、反目していたタタル族に毒殺された。

これが引き金となり、テムジンは父の部下に裏切られて捕らえられ、殺されそうになる。何とか逃げ切った後も、テムジン一家は餓死寸前の厳しい生活を強いられる。切り詰めた生活の中、兄弟仲が悪くなり、テムジンは母親違いの弟ベクテルを殺してしまった。これがもとでずいぶんと母親に怒られたりもしたらしい。

テムジンが「自分のために父は死んでしまったのだ」と考えてくよくよ悩むほどナイーブだったかはわからないが、父の死+捕虜生活+弟殺し+母の説教を立て続けに体験したら、どんな人間だって気が滅入るに違いない。この後さらに、メルキト部の攻撃を受け、妻ボルテを奪われてしまう。まだ新婚ホヤホヤの彼にはこれもショックだったろう。

まあ、今の日本だって戦争になれば「こんなのよくある話」で片付けられるだろうけど。

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●人生のポイント

落ちぶれまくったテムジンは、亡き父の七光りにしがみつくしか這い上がる手立てはなかった。

彼は父と親しかった者を訪ね、徐々に部族の勢力を取り戻す。仲間たちの助けによりメルキト部を倒し、妻ボルテも奪い返した。が、彼らの社会では残念ながらジェンダー教育が行われていなかった。戻ってきた妻はすぐに、テムジンの子でない男子を生んだ。

とはいえ、戦いに勝ったことで一目置かれるようになったテムジンは、部族会議で亡き父の朋友や近縁者たちから指導者に推され、チンギス・ハンの名を与えられる。

チンギスは光の精霊、ハンは王の意である。だからどうした、といわれればそれまでだが。

チンギス・ハンはこの名に満足しないで、ひたすら勢力拡大に努める。20年の後には、モンゴルの遊牧民諸部族を統一し、中国、アジア、東ヨーロッパの大半を大量殺戮と略奪を繰り返すことにより征服し、モンゴル帝国を築き上げることになる。

何も悪意を持っていないのに虐殺された側からすれば、チンギス・ハンは途方もない悪党だ。それでも、父を殺され最初の妻を奪われた若い日の彼を思えば、この残酷さもちょっとくらいは理解できそうな気もする。

征服した国の女性たちに対し、組織的に性交を強要していたといわれるチンギス・ハンは、2004年のDNA解析の結果、世界中で一番多く自分の子孫を残した人物とされる。父との絆には義理堅い彼、恋愛観はずいぶんドライな人間だったようである。

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●もし父親が生きていたら

父が部族長となり、そこそこの安泰生活。仲のよい一家を守るテムジンは、美しい妻とともに落ち着こうと、定住生活を始める。やがて、壁を彩色するペンキ職人となり、なぜかダンスに目覚め、屋内ダンス場を建築。毎週土曜の夜はお祭り騒ぎを繰り返し、見事なステップででオノン川流域のヒーローとなったテムジン、ダンサーの指導者に推され、チンギス・ハンの名を与えられる。西の国から流れてきた旅人たちを父に紹介され、彼らと一緒に自分の名をタイトルにした誰もが踊れるディスコミュージックを完成。この曲は屋内パーティーのみならず、捌いた羊を直火であぶって食べる際のバックミュージックとしても世界各地で大流行。

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「私が成功するだけでは十分ではない。皆が失敗しなければならない」
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2005年06月07日

アイザック・ニュートン(1642-1727)…イギリス/科学者

<玉の輿再婚大成功>

●父早死に:ニュートンの場合

親というのは、長く生きるほど子供のためになるわけではない。

ニュートンが生まれる3ヶ月前に、彼の父アイザックは死んだ。長い目でみれば、これは早産で生まれたニュートンにとって最初の幸運だった。

裕福ではなかった父は「金遣いが荒く体の弱い男」で「粗野で、無茶で、意気地なし」(ただしこれは後出する妻の再婚相手スミスの評)だったといわれる。その家系は彼を含めずっと文盲で、ニュートンの登場まで自分の名前を書ける者はいなかった。

夫と同じく学問と縁のない出自の母ハナは、階級社会イギリスの通例に従い、息子に親の後を継がせるつもりだった。つまり、ニュートンは当然、農民になるはずだったのだ。

ニュートンが3歳の時、母ハナ(当時30歳くらい)は裕福な司祭スミス(当時63歳、それまでずっと独身)と再婚する。これはニュートンの養育費を得る目的もあったようだ。父の死による遺産は、幼い息子と母の未来を保障できるほどのものではなかったのである。ニュートンは祖母のもとに預けられ、しばらくは母と離れて暮らした。

後の告白によれば、この頃ニュートンは還暦を過ぎた義父をひどく恨んでいたようだ。スミスに「お前の両親を殺し、家を焼いてしまうぞ」なんて脅してたらしい。とはいえ、義理の息子に多大な金銭的援助を与え、彼の母親を次々と身ごもらせた義父からしてみれば、未来の大科学者の恨み節も、ガキのたわごとくらいにしか聞こえなかったかも。

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●人生のポイント

ニュートンが14歳になると、義父スミスも亡くなった。これも長い目で見れば、ニュートンの人生にとって絶妙なタイミングでの死に方となった。

母ハナは彼との間にできた3人の異父弟妹を連れて長男の暮らす実家に戻った。そして、ニュートンに通っていた学校をやめさせ、無理やり農業をやらせる。

が、当の息子は農業そっちのけで義父の遺した自然科学系の本を中心に科学書を読みあさり、水車などの模型作りに熱中してばかり。やがて知識階級のスミス家側が「この子には農業より学問をさせるべきでは」とハナに説得し、ニュートンはケンブリッジ大学に進学する。これは義父スミス及びスミス家の存在なしにありえなかった選択である。以降、ニュートンは科学者としての道を邁進してゆく。

ニュートンは「自分は神から選ばれた人間である」と確信し、自分に絶対の自信を抱いていた。幼児死亡率が非常に高い時期に早産で生まれた彼が生き延びたのは奇跡的だったし、当時存在した「父の死とともに生まれる男子には比類のない能力が授けられる」という迷信に影響されたのかもしれない。ニュートンの神に対する異常な執着は、聖職者だった義父への反発心からともいわれるが、いずれにせよこの態度が彼に比類のない業績をもたらした。

結果からすれば、実父・義父の死期は、科学者ニュートンの人生を成功に導くうえで都合のよいものだった。あの世に行くにも肝心なのはステキなタイミング、である。

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●もし父親が生きていたら

寡黙な農民となったニュートン、文字もほとんど知らぬまま、病弱な父に代わって土に向き合い汗する毎日。鍬を持つ手を止め、額ににじむ汗を泥にまみれた手の甲でぬぐう。と、目の前のリンゴの木から、よく熟れた赤い実がひとつ、ポトリと落ちる。この光景を脳裏に焼き付けながら、彼は「甘いリンゴをたくさん作る法則」を考えるが、何も思いつけない。「俺の人生こんなことでいいのか」とひとり呟くが、握りなおした鍬が土を打つ音に、想いはかき消されてゆく。やがて夕闇があたりを包み、ふと空を見上げれば、そこにはぽっかり白く光る月がひとつ。「月はどうして収穫できないのだろう」などと考えながら、ニュートンは帰り支度を始める。

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「天体の運動はいくらでも計算できるが、人の心は計算できない」
■プロフィール・参考文献
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2005年06月01日

●不幸にどう対処する?

自分は不幸だ、と感じたらどうするか? 

もちろん「不幸の原因となる問題を解決する。」というのは正しい。だが、たいていの場合、不幸というのは解決が難しいから不幸なのである。ひとまずは、こんなふうになりがちだ。

・自殺する。
・運を信じる。
・自分を責める。
・神仏にすがりつく。
・誰かの同情を求める。
・自分の不幸ぶりに浸る。
・自分以外の何かを責める。
・不幸ではないフリをしてみる。
・同じ不幸から抜け出した人間に倣う。
・同じ不幸に陥りそうな人に警告を促す。
・自分より幸福な人間を羨んで嫉妬に狂う。
・自分を不幸にした人間にこっそり復讐を誓う。
・やり場のない気持ちを抱えながら鬱々と日々を送る。
・同じ不幸から抜け出した人間をひがみ、その足を引っ張る。
・これ以上の不幸を恐れてやりたいことや欲しいものをあきらめる。
・目の前の不幸からとりあえず気持ちをまぎらわせるため、何かに没頭する。
・より不幸な人を眺め、自分の不幸がそれほどではないことに胸をなでおろす。
・自分と同じような不幸を抱えた人がズルズルと陥ちてゆくのを眺め恐怖に震える。
・自分はこんな目に遭ってるんだからこのくらいやって当然だと考え、一般的には許されない言動をする。

……とはいえ、時と場合で不幸にどう対処すべきかは異なる。不幸な目に遭うたびに、いちいちその方法を発明するより、すでに不幸を生きた人に学ぶのが早い。

このサイトでは、不幸に遭遇した偉人を取り上げる。すでに偉人、というレッテルが貼られている彼ら彼女らを分析し、強引ながらも不幸のレッテルを貼ってみる。偉人たちの対処法が正解というわけでは決してないが、不幸はときにその業績に劣らず、生きてゆくうえでの参考になるはずである。
●なぜ偉人か ●死人の理由 ●不幸を知る必要性

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