2005年07月29日

ヘレン・ケラー(1880-1968)…アメリカ/福祉事業家、作家

<奇跡の人から寄席の人へ>

●身体障害:ヘレンの場合

人は「障害者」や「有名大学」をなにか色眼鏡で見ているものである。この色眼鏡がなければ、ヘレン・ケラーという人は著名な偉人にはならなかったろう。

アン・サリバンの献身的指導によって言葉を覚えたヘレンは12歳で童話『霜の王様』を雑誌に発表し、注目を集めた。が、これは原作の童話をどこかで読んでもらったことをすっかり忘れたヘレンが、自分の創作と思いこんでしまったことから生まれた作品だ。そっくりな物語が存在したため、ヘレンとサリバンは盗作の疑いをかけられる。

これにより、世間の半分はサリバンがヘレンの天才のおかげで名をあげたと考え、残りの半分はサリバンが天才でヘレンは猿回しだと決め込んだ。世間とはそういうものである。

16歳になったヘレンは、「ペテン師」「操り人形」といった周囲からの非難を見返すため、大学入学を志して必死で勉強。努力は報われ、ラドクリフ・カレッジ(ハーバード大学の女子部)に合格・入学すると、在学中の22歳で自伝『わたしの人生』が出版され大ベストセラーに(ちなみに日本でも、同じように有名大学在学中の身体障害者が書いた伝記が98年に大ベストセラーになっている)。

世間のヘレンを見る目はガラリと変わった。ただし、受験勉強の手助けに無理を強いたため、もともとあまりよくなかったサリバンの視力はひどく悪化した。後にヘレンは「私の大学生活の大部分は退屈だった」と語ったが、世間を納得させる手段に「大卒」は今も有効だ。

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●人生のポイント

いくら讃えられても、結局ヘレンは「障害者」という括りでしか認識されていなかった。このことが判明するのは、彼女が社会運動に身を投じてからのことだ。

30歳を過ぎる頃から、ヘレンは婦人参政権の獲得、反戦運動、産児制限、NAACP(全国黒人地位向上協会)への支持を表明するが、これがもとで、発言の場は狭められてゆく。周囲もマスコミも、急進的活動をする彼女を「意見を述べる権利があるのか」と批判するか、無視するかのどちらかだったのだ。これは「障害者は健常者のことに口を出すな」という根強い差別・偏見があったためだ。

窮地に追いやられたヘレンを受け入れたのは、見世物の世界だった。激減した収入を補うため、彼女はストーリーもへったくれもない三流映画に出演し、盲人協会への寄付を募ろうと、サーカスとともに巡業する。熊やアザラシと同じ寄席のステージに立つこともしばしばだった。「なぜ寄席に出ることにしたのです?」と尋ねる記者に、ヘレンは臆することなく答えた。「お金を稼ぐためですわ」

定番となった演劇『奇跡の人』がある以上、神話的人物として、ヘレン・ケラーは語り継がれてゆくだろう。だが、彼女の発したメッセージや社会活動が着目されず、「三重苦を乗り越えた大卒ベストセラー女性作家」としてしかヘレンを捉えない現状が続けば、ヘレンの存在意義は薄れていくだろう。健常者以上の活躍をする障害者は続々登場しているのだから。

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●もし身体障害がなかったら

アメリカ南部の大地主の家に生まれて、黒人のお手伝いさんと家庭教師つきで育った白人お嬢様ヘレン。優れた容姿を生かして舞台女優を目指すが、ステージで知り合った喜劇俳優と結婚し、ブルジョア専業主婦に転身。近所のお友達を集めてはホームパーティーを繰り返す。「今日はそよ風に吹かれながら木陰でサンドイッチを広げましょう。ねえ、ごらんになって! まぶしい陽の光が木の葉の隙間からキラキラ輝いて見えるわ……なんて素晴らしいんでしょう!」「しーっ、耳を澄ましてみてちょうだい。あの小川のそばで小鳥たちが軽やかな声でさえずっているわ」日々、こんな感じ。ギョロ目の夫はお笑いから政治家に転身し、国会議員を務める。
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「障害は不便である。しかし、不幸ではない」
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2005年07月26日

孔子(前551-前479)…古代中国/思想家、儒教の祖

<69にして挫折>

●亡命:孔子の場合

「50にして天命を知る」といった孔子だが、彼自身は50になっても自分の運命がどうなるのかわかっていなかった。

孔子が「政治の道に従事しよう」と本格的に考えるようになったのは50歳頃のこと。ずいぶん遅いが、51歳で中都の宰に任命され、翌年には中央官職となり、着々と実務の腕を振るった。54歳で魯の大司寇(司法大臣)となるが、翌年には横暴政治への改革をはかって失敗。結局、実質的に政治に従事したのは、55歳で職を退くまでの数年間に過ぎなかった。

その後、孔子は亡命の旅に発ち、自分の理想とする政治を採用してくれる君主を捜し求めて放浪する。14年間、曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚の諸国を流浪し遊説してまわるが、彼の為政案はどこへ行っても採用されなかった。旅の途中には、人違いで殺されかけたり、飢えたりもして、3度も命を落としそうになった。こんなひどい目にあった亡命だが、何の役に立ったのかよくわからない。

結局、69歳のときに帰還を求められたため、孔子は祖国の魯に帰る。しばらくは大夫として待遇されたものの、彼の意見は聞き入れられず、最後まで政治の場に登用されることはなかった。55でリストラされて求職にあがくが不採用を繰り返し、70歳近くでようやく職を諦めた孔子。彼を皮肉った「孔子一生就職難」という言葉があるが、普通もう30年くらい若いうちに体験しておくようなことじゃないだろうか。

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●人生のポイント

孔子の名が中国思想史に残るのは、政治に挫折した、亡命後の活動による。彼が政治家として成功していたら、春秋末期の為政者として小さく名を連ねただけだろう。

政界への望みを絶った孔子は、『詩(後の詩経)』や『書(書経)』など典籍の整理をし、これを教材として弟子の教育に専念した。当時集まった若くて優秀な弟子たちは、孔子が壮年に教育した先進の弟子に対し、後進と呼ばれた。この後進たちが残した孔子の言行記録が、儒教の経典『論語』のもととなる。

実は孔子、政治の道を歩もうとする前から「どうして政界に乗り出さないのか」としばしば人に尋ねられていた。もともと、法律や政令による規制よりも、道徳や礼儀を教え導くことが理想的な支配方式だと考えていた彼は「親孝行をし、兄弟仲良くすることが政治への施しとなるのだ」と答えていたのである(このずいぶんのんきで陰険な考え方は、後に魯迅や毛沢東などの急進的革命を目指す人たちに嫌われる)。

先進も含め、孔子が生涯に教えた弟子は全部で3000人。そのうち六芸(礼、楽、射、御、書、数)に通じたものは72人(「弟子三千人、六芸に通ずる者七十二人」)といわれるほどに、学問の普及にはかりしれない影響を及ぼした。亡命せず、ずっと教育に集中していれば、もっと大きな功績を残していたのかもしれないが、年とってから甲斐のない亡命生活をしてしまった焦りが、晩年の信じ難いエネルギーになったように見えなくもない。

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●もし故国に留まっていたら

55歳で政治改革に失敗して以来、「もうちょっと政治をやりたい」というフラストレーションを抱えつつも、魯で教育及び編纂活動に専念。後進たちに問いつめられ「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ」の続きを「四十にして惑わずといいたいところだが実はかなり惑った。五十にして天命を知ったかと思ったけど勘違い。五十五にして大失敗、六十にして耳が遠くなり、六十五にして政治はきっぱり諦める。七十にして孫誕生でちょっと嬉しい」と本音を告白。離縁した妻、長く離れて暮らした息子のことなど、あまり触れないようにしていた話題にも口を滑らせたため「夫婦・親子仲良く」と説く儒学の教義に「但し時と場合による」と注釈が加わる。
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「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」
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2005年07月22日

ソクラテス(前470か46-前399)…古代ギリシア/哲学者

<善く生き、毒飲む>

●有罪:ソクラテスの場合

ソクラテスは裁判の結果、死刑に処された。

人々と哲学的対話を交わすことを仕事としたソクラテスは、有力者や美しい青少年を街角や体操場でいきなりとっつかまえて「勇気とは何か」「正義とは何か」などと質問攻めにし、相手の答えの矛盾を突いた。これはソクラテスが、知らないということを知っていること……「無知の知」を、すべての人間に悟らせようとしたため、らしい。普通、こういう迷惑なオジサンに出くわしたら、そっと逃げるのが得策だ。相手が「それはわからない」と、自分の無知を告白するまで、ソクラテスは延々と議論を展開した。そのやり方は、自らの無知を露呈された人々の怒りを買った。ま、当然だろう。

やがて彼は「アテネの若者の道徳を堕落させ、異端の教えを説いた」と訴えられた。裁判での彼は弁護人を断り「自分は教師として人々の役に立っており、むしろ誉めてほしいぐらいだ」などと、自ら無実を主張した。が、皮肉を含むソクラテスの供述はかえって反感を買い、2回目の裁判では死刑が宣告された。

監獄での彼は判決が出てからも、いつもと変わらず友人たちと面会し、哲学について語り合った。弟子のクリトンが脱獄できるようとりはからってくれたので、逃亡して他国へ亡命することもできたのに、彼はそうしなかった。最期の日、毒ニンジンの入ったコップを渡されたソクラテスは、アテネの法に従い、自らの意思でそれを飲み、死んだ。

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●人生のポイント

小学校の道徳の教科書には「ソクラテスは、死けいになりました。はんけつにしたがってどくにんじんをのんで死にました」という話が掲載されている。読んだ児童たちは、謎だらけの校則にも従うほかないと思いそうだが、実際のところ、この死刑エピソードこそ、彼が広くその名を知られる最大の理由である。

ソクラテスが自分で書いた本はひとつもないし、ゴーストライターを使ったこともない。が、彼の思想や言動は、時と場所を越えて多くの人に知られている。これは彼の死後、プラトンやクセノフォンなど、ソクラテスを敬愛していた者たちが記述を遺したためである。

もともと政治家を志していたプラトンがその道を断念し、執筆を始めたのは、祖国アテネが師ソクラテスを不当に処刑したことに衝撃を受けたことがきっかけとなっている。また、クセノフォンのソクラテスに関する記述も、この裁判に関わる内容に多くを割いている。つまり、この裁判やら処刑やらがなければ、ソクラテスについての資料は今よりはるかに少なかったのだ。

また、死ぬときまで「善く生きる」ことの追求にこだわった彼の冷静な態度は、哲学に転換と飛躍をもたらした。それまでギリシア哲学の主題は「宇宙の原理を問う」ことだった。が、自分の命と引き換えにでも「善く生きること」を追求する人間が現れたことで、初めて自己と自己の根拠への問いが哲学的主題となり、人間の内面へ目が向けられるようになったのである。

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●もし無罪になっていたら

すでに70過ぎのよぼよぼ爺さんとなったソクラテス、無罪判決で釈放されるも間もなく老衰死。生前の彼との討論で面目をつぶされた人たちはその死に狂喜し「タラコ唇でひしゃげた獅子鼻のデメキン禿げ男」「あいつが無罪でも妻は悪妻」など、亡きソクラテスへの誹謗中傷が炸裂。プラトンは政治家となりソクラテスについての記述はほとんど残らないが、「若い頃から度々幻聴を聞いてはいきなり立ち止まって1日中動かなくなり、毎日街角や体操場で美しい青少年をとっつかまえてやたらと長く話し込むブサイクじじい」……が、「実はけっこうマトモなこと考えてたみたい」「なんかリスペクトされてたっぽい」などの歪んだ伝説がほんのり語り継がれる。
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「世界を動かそうと思ったら、自分を動かすことから始めよ」
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2005年07月19日

野口英世(1876-1928)…日本/医学者、細菌学者

<他人の金で拓けたテンボウ>

●借金:英世の場合

英世が借金を重ねるようになったのは、医学を志して上京後のことである。彼の才能を認めた歯科医・血脇守之助が、月15円(当時の中学教師の月給並)の学資を援助するが、英世は学業のみならず酒と女遊びに精を出し、毎回あっという間にスッカラピンになってしまう。

順天堂病院助手として給料を得るようになっても、英世は郷里の友人に無心を重ねた。清国の国際防疫班に加わったときには、出発前に飲んで騒いで支度金の96円を使い果たし、泣きつかれた血脇が新婚の妻の着物を質に入れ、5円を工面した。清国では英世に相当な収入があったはずだが、毎夜歓楽街で遊んだうえ、友人にも金を騙し取られ、結局無一文で帰国する。

その後、野口は研究のためアメリカへ発つ。このとき帰国したら娘と結婚するという約束で婚約者の家族から結納金として300円、渡米の費用に恩師から200円を受け取る。

が、送別の宴をあまりに派手に行ったため、船の切符も買わぬまま残金は30円に。再び泣きつかれた血脇、高利貸しから300円を借りて英世に渡す。その後も英世は、フィアンセの家族から搾り取るだけの金を搾り取り、結局この婚約は破談に。

渡米後も金銭感覚はルーズなままで、たびたび友人たちから借金をした。このため、研究者仲間たちは「野口に金を貸すな」とささやきあった。帝国学士院から恩賜賞を授与されることになったときは、友人から7000円(5000円とも)を帰国費用として送金してもらっている。何様のつもりだろう。

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●人生のポイント

成人するまで、英世には「他人のお金を使うことで自分の願いが実現される」ことが度々だった。

尋常小学校でさえ就学率が50%ほどだった当時、貧農の家に生まれた彼が進級できたのは、彼の猛烈な勉強による優秀な成績に加え、高等小学校の教師である小林栄から援助の申し出があったためである。

英世が手を手術できたのも、周囲からの金銭的援助のおかげだ。彼は学校の作文で「この手がある限り、どれほど努力しても、自分は一人前になれないのではないか。いっそ小刀で5本の指を切り裂こうとまで思う」と、コンプレックスを赤裸々に綴った。これを受け、英世に同情した人たちの間で募金が始まり、集まったお金で手術が施された。こうして、丸くくっついていた英世の右手は、10数年ぶりに5本の指となった。

後年、英世は知人に向けて語った。「僕にとって研究は投機一転、または賭けの一種だ。一生懸命やっても結果は当たるか外れるかわからない。東京帝大の緒方正樹は能力と学識では上だが、弟子の北里(柴三郎)のほうが賭けに当たったから世界的に名を成した。もしこんな血の滲むような労苦をして、それでも当たらないなら、鉄道自殺でもやるかもしれないな」

研究が「当た」って世界的に名を成すことができれば、あとはなんだってかまわなかったのだろう。不眠不休で働き続け「人間発電機」と呼ばれた彼の名誉欲は尋常でなかったが、金は彼にとって道具以上のものではなかったのだのだ。

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●もし倹約家だったら

手への同情から人々が恵んでくれるお金をすべて貯金し、英世は一家の稼ぎ頭となる。放浪の旅に発ち、手を聴衆に晒してはお涙頂戴の火傷話を披露してまわる。成人後は足代つきの講演先で芸者と酒の接待を受けるようになり、金も使わず人生ウハウハ状態。語学を得意とした英世はついに渡米。火傷の話に加えて「金を使わず酒池肉林の旅行三昧を実現する法」を定番ネタに遊説し、全米で注目を集める。調子づいた英世は、講演中に10回お辞儀をするテンボー(ten bow)ギャグを編み出すが、これがまったくウケずに大ブーイングの嵐。その後は鳴かず飛ばずで、すでに築いた莫大な貯金をちょっとずつ使いながら質素に暮らす。
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「周りの人間も周りの状況も自分が作り出した影だと知るべきである」
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2005年07月15日

フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)…看護婦、病院改良家

<完璧なるもの以外は失敗>

●生涯独身:ナイチンゲールの場合

美しく裕福だったナイチンゲール、若い頃はかなりモテた。逆玉に乗りたいという下心からの奴も含め、言い寄られることは少なくなかったが、90年の生涯を最期まで独り身を貫いた。

ある男性からの9年間にわたる求婚の申し出を断った頃、彼女はノートに次のように記している。「立派な男性が求婚すれば、女性がそれを受諾しない理由はない、という考えにはまったく賛成できない。神の摂理もそうではないと思う。女性たちのうち、妻になるのが神の定めであるものもいるように、独り身でいるよう、明らかに定められているものもいる」「今年で30歳になる。キリストが伝道を始めた歳だ。もはや子供っぽいことは終わり。無駄なことも、恋も、結婚も。さあ、主よ、あなた様のご意志のみを考えさせてください」

31歳になると「死以外に望ましい将来を思い描いたことがなかった」と書き、ノートの100ページを使って家庭生活が虚偽に満ちており、結婚がばかげており、因習が虚しいことを綴った。後年には、J・S・ミル宛ての手紙で「結婚している女性が自分自身の財産を自由にする権利を持つまでは、愛も、正義も、存在し得ないでしょう」と記している。

なお、彼女は同性愛者だった、とする説もある。事実は判然としないが、いとこのマリアンヌ・ニコルスンについて、こう書き残していることは確かだ。「私が今日までの生涯で、真に情熱をもって愛した人はただ一人であり、それがあの女性だったのです」

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●人生のポイント

ナイチンゲールといえばクリミア戦争中の野戦病院での看護。そう思う人は多いだろうが、彼女が看護婦として活動した期間はたった3年あまりである。実際には、そこでの失敗に基づき、『看護覚書』をはじめとする約200の著作や書簡などを通じて取り組んだ病院改革の功績が大きい。彼女のデータに基づいた説得力ある調査報告は、かなりの影響力をもっていたのだ。

そもそもナイチンゲールが登場するまで、看護婦の仕事の実態は売春婦やホステスとたいして差のないものだった。看護婦の社会的地位は彼女の力によって飛躍的に向上したが、そのためには形式的なシステム改革だけでなく、男に隙を見せないためのアイデアが必要だったのである。

ナイチンゲール彼女にしてみれば、ベッドは色事の場などではなかった。病院に並ぶベッドは30代の彼女にとって看護の現場だった。人生の終盤50年は、体調不良のため彼女自身がベッドの上に寝たきり状態だったが、身を横たえながらもあちらこちらに指揮を出し、周囲を統率し続けた。

メモ魔、記録魔だったナイチンゲールは、著書だけでなく約1万2000通の書簡やノートに多数の名言を残している。「完璧なるもの以外は失敗」「あきらめなどという言葉は私の辞書にはない」「すべてを思いどおりに成し遂げるのでなければ、何もなさなかったのと同じ」……ともすれば相手との妥協を迫られる恋愛だの結婚だのを、彼女が人生から排除したのは当然かもしれない。

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●もし結婚していたら

主婦となったナイチンゲールは緻密に『掃除覚書』『育児覚書』『家計覚書』『料理覚書』『夫婦覚書』を記す。ほうきやおしめの取替え時期から寄付による度々の出費、夫婦生活の回数まで、数値化できるものはすべてグラフ化して文中に添付。さらには雑巾装着可能な掃除用、哺乳瓶付属の育児用、電卓とメモが常備できる家計用、一見エプロンにしか見えない料理用、一見ネグリジェにしか見えない夫婦用の制服を提案。著書はすべて主婦たちの愛読書となりベストセラー入りを果たすが、頭のてっぺんからつま先まですべて、妻の思うままに操られ続けた夫は、ある日突然姿を消し、『夫婦覚書』のみ中断。その後も夫の行方はわからずじまい。
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「自分が敗北者だということに気づかずにいることこそ、勝利への近道である」
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2005年07月12日

ルイス・キャロル(1832-98)…イギリス/童話作家、数学講師

<幼女は大好き>

●生涯独身:キャロルの場合

オックスフォード大学の数学講師であったキャロルには、結婚につながるような大人の女性との恋愛はなかった。結婚というのは彼にとって魅力的なものではなかったのである。52歳のとき、友人にこんな手紙を書いている。

「あなたは結婚して12年ですが、僕のほうは年寄りになっても相変わらず独身なのです。これからもそのままのはずです。学寮での明け暮れは女っ気がなくて惨めというものでは全然ありません。無論結婚生活にも多々いい所があるのでしょうが僕にはちょっと縁がないようですね」

ただし、未成熟な少女たちに、彼はずいぶんと熱を上げた。31歳の時点ですでに、彼の名簿には107人の少女たちの名が記されていたという。また、キャロルは少女たちの肖像画を数多く描き、撮影に没頭した。

彼のアルバムには、ごく普通の人物像のほか、さまざまな姿をした少女たち――洋服を着たノーマルなもの、仮装したもの、裸でポーズをとっているものなど――を写した膨大な数の写真が遺されている。キャロルは少女たちの肖像画も多く書き残した。

キャロルには長く友人関係を続けた女性が何人かいた。それに、当時のイギリスでは彼以外にも純粋さの象徴として、少女のヌード写真を撮る者が多かった。そんなわけでキャロルが変質狂的なロリコンだった、と断定はできない。が、仮にそうでなかったとしても、そんなふうに思われても仕方ないという気がする。

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●人生のポイント

真相は定かでないものの、キャロルが13歳の少女に求婚した、17歳の少女に恋愛感情を持っていた、といった噂は語り継がれている。

1856年からしばらくの間、彼はエレンという女性と親しくなる。この女性は、キャロルにとって生涯にわたって影響を与えた、といわれる。

が、エレンとキャロル2人の間で仮に恋愛感情といえるような気持ちが起きたとしても、たかだか3年程度の短い期間である。お互いがやや疎遠になり始めた頃、キャロルは32歳、エレンのほうはもう少しで17に手が届こうとしていた。少女から大人の女へと移り変わろうとするまさにそのとき、この関係は変わってしまったようだ。

なお、キャロルは大学講師でありながら、どもりというハンディがあり、人前で話すことが苦手だった。しかし彼は、子供を相手にした時だけ、すらすらと話せた。

『不思議の国のアリス』はもともと、キャロルが学寮長リデルの3人の娘と川遊びのピクニックに出かけ、その場で次女のアリスを主人公にして即興で語った話がもとになっている。キャロルが求婚したという説も、このリデル家の娘に対するものである。

姉妹作『鏡の国のアリス』が記された頃、キャロルはリデル家と疎遠になっていたが、これも実在する「アリス」という名の少女をモデルにした作品であることは間違いない。代表作のひとつ『スナーク狩り』もまた、別の少女に捧げたものである。キャロルに作品を生む想像力を導き出したのは、いつも少女、だったのだ。

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●もし結婚していたら

可能な限り若妻を得るが、子供ができず女児を養子にもらい、血のつながらぬその少女をアリスと名づける。毎晩キャロルはこの娘と一緒に入浴しつつ、アリスを主人公にした物語を語る。数年のうちに妻は、夫が自分と話すときどもり始めたのに気づく。相変わらず娘と長湯を続けるキャロルに不信を感じ始めた彼女、夫の引き出しから少女の裸体写真を見つけ、ショックにひとり、立ち尽くす。以来、キャロルはそれまで語ったストーリーを封印、微妙に現実感のあるアリスを主人公に話をする……「東の国のアリス」「男3人のアリス」「ヒゲのアリス」「歌い終えた後に『ありがとう』というアリス」「頭の禿げ上がってきたアリス」「やけに存在感の薄いアリス」etc.
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「人生において、誰からもケチをつけられそうにないことばかりしていたら、たいしたことはできないだろう」
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2005年07月08日

カール・マルクス(1818-83)…ドイツ/共産主義思想家、運動家

<実は浪費家>

●借金:マルクスの場合

ブルジョア階級の家庭に生まれ、弁護士の父を持つマルクスは、成人してからの人生のほとんどを借金に追われながら生きた。

食うや食わずの状態に陥っては、「妻は毎日、子供たちと一緒に死んでしまいたいといっている」などとフリードリヒ・エンゲルスに窮状を訴える手紙を書き送り、援助を求めた。裕福な親戚や知人にも金を無心し、誰か死ねば遺産を期待した。

といっても、彼に金がなかったのではない。実際のところ、最も困窮した年でさえ、マルクスはエンゲルスをはじめとする各方面から、切り詰めればそこそこ生活できるくらいの助成金を得ていたのである。借金の原因は、使いすぎだ。借金取りが列をなして家のドアを叩き、家族の食べ物も満足に買えない状況となっても、マルクスは秘書を雇い、妻の服を新調し、子供を学費の高い専門学校に通わせてフランス語、イタリア語、絵画、音楽の家庭教師をつけた。

もともとマルクスは若い頃から金遣いが荒く、大学在学中もほとんど講義に出席しないで、絶えず借金をしていた。1年に親の仕送りを700タラー近く浪費したが、これは普通の学生が使う金額の数倍であり、当時の市議会議員の年収に相当する。

生きるということの究極の法則を問われたマルクスは「闘争!」と答えている。ということは、借金取りとの闘争も、彼が望むところだったのだろうか。真の意味のマルクス思想とやらは、「節約」とは相容れないものなのかもしれない。

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●人生のポイント

マルクスがブルジョア階級に生まれながらブルジョアを憎み、持たざる者の声を代弁できたのは、自らを持たざるものの状態に追いやる比類なき才能を持ち合わせていたためかもしれない。「商品の価値は標準的な条件のもとでその生産に必要とされる労働量で決まる」と労働価値説を展開させた彼だが、商品を得る手段として労働しようとしたことはほとんどないのだ。

借金が途方もなく膨れ上がったときには、さすがのマルクスも鉄道会社の事務員として働こうとしたが、あまりに字が汚く誰にも読めないので不採用となる。彼がどうにか生き長らえ、数々の著書を完成させることができたのは、彼の妻以外に唯一その汚い字を読める人物、エンゲルスの助成によるところが大きい。彼は精神的にも経済的にも革命的にも、マルクスが生きている間のみならず死んだ後まで、バックアップし続けたのである。

不安定な生活を強いられたマルクスの子供たちは、4人が彼より先に死に、2人が自殺している。「これほど金不足な人間が'金'について書いたことはこれまで1度もなかったのではないか」と自らをジョークのネタにしながら、マルクスは30数年をかけて主著『資本論(資本――経済学批判)』を書き上げた。

が、今でこそ「リンネル」の意味もわからぬままやたらと読まれるこの本、当時はほとんど売れなかった。あまりに反響がなくて不眠症に陥ったマルクス、国籍も遺言もたいした財産もないまま亡くなった。

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●もし倹約家だったら

倹約主義者同盟を組織し、「今日までのあらゆる売り買いの歴史は価格闘争の歴史である」の序文で始まる『倹約党宣言』を記す。この書により、投資家、貯蓄家、宵越しの金は持たない江戸っ子などの浪費家による三項対立が明らかにされる。浪費好きの貴族たちを非難しているうちに不当逮捕が繰り返されるようになり、ケチの集まるオランダに亡命。「食事とは味わうものではなく、空腹を満たすもの」という考えを全世界に広め、「水道水をチョロチョロ少しずつ出しても水道代は変わらない」など、これまで信じられてきた倹約法に異論を提唱。価額による家計理論を樹立するために記された彼の主著『基本――高額批判』は、節約好き小市民のバイブルに。
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「哲学者たちがやったのは、いろんな方法でこの世界を解釈しただけだ。重要なのは変えることだ」
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2005年07月05日

マリー・キュリー(1867-1934)…ポーランド→フランス/物理学者、化学者

<ガイジン女の隙>

●不倫:マリー・キュリーの場合

44歳のとき、マリー・キュリーは6歳年下の物理学者・ポール・ランジュバンと愛人関係にあった。第3回ノーベル物理学賞を共同受賞したマリーの夫ピエールは、6年前に交通事故で亡くなっていた。

妻と別居していたランジュバンは、ピエールの生徒であり友人であった。理解のない妻との離婚を望む彼が、顔見知りのマリーに相談を重ねるうち、2人は親しくなったのだ。

1911年、新聞が2人の交際を報道すると、マリーはバッシングの集中砲火を浴びる。まもなく、彼女がランジュバンに宛てた手紙は、彼の妻の手を通して誌面に公表されることになる。ランジュバンが妻と別れて「幸福になる権利」「自分の人生を生きる権利」という手紙文中に示された考えは「功利主義的な科学的道徳」を擁護するものとして、徹底的な攻撃の対象となる。

群集はマリーの自宅周辺に集まり、「外国女は出て行け、夫泥棒」などと罵声を浴びせ、石を投げつける。仕方なくマリーは友人の家に避難しなければならなかった。

そもそもフランス人にとって、男性の不倫というのは日常茶飯事。普通であればわざわざ騒ぎ立てるほどの話ではない。実際、ランジュバンはマリーとの関係を終えた後、名もない秘書を愛人としたが、彼の妻はマリーのときのように訴えたり脅したりなどせず、周囲も黙認した。マリーが執拗に批判されたのは、彼女が高名な女性であり、外国人だったためなのである。

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●人生のポイント

「女性」であり「外国人」であることにより不利な立場に立たされたのは、マリーにとって初めてではない。ランジュバンとの関係によりバッシングを浴びる直前、マリーはフランス科学アカデミーのメンバーに立候補し、1票差で落選している。実績からすれば彼女がメンバーとなるのは当然だが、「伝統あるアカデミーに女を入れてたまるか」という反発が生じたのだ。

不倫バッシング覚めやらぬ中、マリーは2度目のノーベル賞を受ける。このときの化学賞受賞は、純粋な金属ラジウムの単離に成功したため、となっているが、すでに存在の確認されている物質を取り出しただけのこの業績が、2度目の受賞に値するかは、未だに意見が分かれる。有力な科学者仲間が、再起不能かと思われるほどに窮地に立たされた彼女を、再度のノーベル賞で助け出し、励まそう、という動きはあったらしい。

1903年にノーベル物理学賞を夫と受賞した時、マリーは「初めてノーベル賞を受賞した女性」だったが、この受賞により「初めてノーベル賞を2度受賞した人」となった。それまでマリーを「夫の力で受賞した女」と見なしていた者も「2度目」「単独」でのノーベル賞受賞により、彼女への見方を変えていった。

こうして徐々にスキャンダルは風化した。第1次世界大戦中に娘イレーヌとともに放射線装置で傷痍兵の治療にあたったことも、マリーの名誉挽回を生んだ。受賞とわかりやすい社会貢献は、マリー自身を救ったのである。

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●もし不倫しなかったら

東に「山内一豊の妻」西に「ピエール・キュリーの妻」あり、ってな具合にマリーの評価は「内助の功を果たした良妻」として定着。彼女のノーベル賞共同受賞、放射能の影響らしき第二子の流産・体重の激減・白血病による死は、夫の放射能研究に一生を翻弄された女の波乱万丈ストーリーとして語り告がれ、科学的業績はそのほとんどが夫の力によるものとされ、1度きりの受賞体験が彼女の人生のピークだったと評される。20世紀中盤には「自然科学系の女性ノーベル賞受賞者は最初3名すべて夫との共同研究」という事実を突きつけられ「やっぱ女1人じゃノーベル賞は無理」「あわよくば」と死に物狂いの仲睦まじさで夫の研究を手伝う科学者の妻が続出。
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「人生において恐れるべきことは何もない。必ず解決できるのだから」

■プロフィール・参考文献
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2005年07月01日

福沢諭吉(1834-1901)…思想家、教育者

<門閥制度は親の敵>

●父早死に:諭吉の場合

諭吉の父は、学村豊かな教養人であったが、諭吉が3歳の時、45年の生涯を封建制度に縛られ何もできぬまま、空しく世を去った。身分の低い下級武士だった彼は、諭吉が生まれた時、息子を坊主にするつもりでいた。

父の死後、諭吉は母子6人で大阪から中津に帰郷し、貧しく惨めな生活を送った。中津では封建制度や士族の門閥制度が厳しく、子供たちの間でも貴賎や身分の違いによる差別がはっきりしていた。身分の低い下級武士の息子である諭吉は、遊んでいる最中にも上士族の子弟に見下された。学力にも腕力にも自信のあった諭吉は、こうした制度に余計に腹が立ってならなかった。

諭吉は成人した後、亡き父がなぜ自分を坊主にしようとしたのかを推察した。封建制度の世では、先祖代々、家老の家に生まれた者は家老、足軽の家に生まれた者は足軽と、何年経っても職業も身分も変わらない。当然、下級武士の息子は名を成すことはできない。ところが坊主だけは魚屋の息子が大僧正になったというような話もたくさんあり、封建制度の枠から外れている。父が自分を坊主にしようと考えたのはそのためだろう。そう思い至った。

一生を封建制度に束縛されて死んでいった父を、諭吉は不憫に思った。生まれたばかりの息子を坊主にしてでも名を上げさせたいとまで考えた父親の心中の苦しさや、彼の愛情の深さを思っては、封建制度を憤り、1人涙を流した。そして彼は、涙だけで終わらなかった。

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●人生のポイント

後に「門閥制度は親の敵で御座る」(『福翁自伝』)と記した彼は、生まれ持った個人の独立・自由・平等を基礎にした国民国家の形成と、独立と平等の関係で交わる国際社会を構想し、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる『学問のすゝめ』シリーズを刊行する。

これは340万部と大反響を呼び、他のベストセラー『文明論之概略』『西洋事情』ともに彼の名を高めた。さらに、日本近代私学の原型となる英学の私塾・慶応義塾(のちの慶応義塾大学)を創設し、新聞による世論形成を願って『時事新報』を発行する。

やがて「国際社会を支配するのは力である」という権力政治観に移行した諭吉は、文明化の遅れた中国や朝鮮の同類と見なされぬよう、西洋文明を導入すべしという脱亜入欧思想を『時事新報』に「脱亜論」として論じた。日清戦争会戦時には軍事介入による朝鮮の文明化や、戦後には列強による中国分割へ日本が割り込むべきだいう考えを唱える。

確かに、天は人の上に人なんか作らない。人の上に人を作り、人の下に人を作るのは人間だ。人は生まれながらにして皆平等だという諭吉は、人の値打ちは学問のあるなしで決まる、と説いた。それまで、そんなものなくても幸せだったはずの日本人たちは、学歴を得るため必死になった。次には権力で国の上下が生まれることを説いた。説かれた日本人は矛盾を追及するのでなく、ひたすら上を目指した。

そして日本、今日に至る。

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●もし父親が生きていたら

語学に秀でた僧となった諭吉は、仏教先進国のインドや中国などアジア各国に渡り修行三昧。帰国後に著した『涅槃之概略』『東洋事情』の他、「天上天下、唯我独尊」で始まる『仏門のすゝめ』シリーズは大ベストセラーに。その後も明治維新で新政府が出した神仏分離令と神道国教化政策(神仏分離)に異を唱え、寺院、仏像、仏具などの破壊行動への抵抗運動に加わり、廃仏毀釈に反対する農民一揆を統率。禅と修行と経典による世論の形成を願って『般若心報』を発行し、悟りによって生死輪廻の苦から逃れられるという「解脱論」を説く。やがて「人や物に執着しても、それは変化し消滅するものなので、失望するだけである」という諸行無常観に至る。
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「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(2) | 父早死に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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