2005年08月30日

グレゴール・メンデル(1822-84)…オーストリア/修道士、遺伝研究家

<修道士の奮闘>

●生前不遇:メンデルの場合

「見ていてごらん、今に私の時代が来る」と周囲に語ったメンデル。彼の生きている間、ついにその時代は訪れなかった。

生活苦のために修道士となったメンデルは、自然科学を愛好していた。ダーウィンの『種の起源』を愛読した彼は、進化論を証明する道具としてエンドウを選び、225回の単調な交配実験を8年間にわたって続けた。実験には彼の勤める聖トマス修道院の中庭縦15メートル、横20メートルほどの狭い土地を使った。数学を得意とした彼は、12980個の雑種を育て、これらを統計処理し「メンデルの遺伝の法則」を導き出した。

この研究成果を1865年2月に発表。翌年には論文「植物雑種の研究」が無名の地方学会誌『ブリュン自然科学会誌』に掲載される。

が、当時はこの論文に対する反応はゼロ。完全な無視をくらったメンデルは、交流のあった生物学界の権威者ネーゲリに論文を送る。

しかし、エンドウのような栽培品種の種形成は研究価値がないと考えていた彼、論文を無価値と決め付けた。

ただし、メンデルを「利用できる奴」と思ったようだ。2年後にはネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ属を与えられ、メンデルはこの交配実験を開始する。

この種は受粉なしに種子をつける(当時は未明だった)うえ、非常に細かい作業を要し、交配実験には不向きだった。思うような成果を得られぬままメンデルは目を悪くし、結果的にネーゲリは彼を不幸にした。

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●人生のポイント

その後もメンデルは研究や実験を行うが、修道院長となった彼には雑務や身体的な問題が生じ、時間を割けなくなった。

晩年の10年間を、メンデルは修道院税法への反対闘争に費やした。差し押さえを受けても味方を失っても、頑固一徹の姿勢で執拗に(研究の仕方もこんなだったのだろう)異議を申し立て続ける彼は、「誇大妄想の修道院長」「訴訟狂」「精神病では」と噂された。

やがてメンデルが病に倒れると、代理人はさっさと税法に降伏し、妥協した。徴税闘争にエネルギーを使い果たし、完全に打ちのめされたメンデルは、日の目を見ぬまま死んでいった。

さて、彼の論文が発表されてから34年後、彼の死から16年後の1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマックが立て続けに、メンデルの文献を引用した論文を発表した。彼らは各自交配実験を試み、3人とも同じ結論に達したが、より精密で正確なメンデルの研究成果を見つけ、自分たちの「発見」だと思っていた事実は「再発見」でしかないことを悟ったのだ。

メンデルの説が埋もれていたのは、発表当時の生物学会では数理統計的手法が理解されなかったり、科学者としてはド素人だった異業種の彼が学会でナメられていたのかもしれない。「再発見」とともにメンデルフィーバーが巻き起こり、彼にちなんだ「メンデリズム」などの用語が生まれた。しかし、メンデル自身はすでに墓地に埋もれていた。

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●もし生前に評価されていたら

以前から宗教的行事や決まりごとを面倒がっていたメンデルに対し、「修道士のくせに進化論を裏付けるだなんて神を否定するつもりか」と、非難轟々。居たたまれなくなってついに修道院を飛び出した彼はイギリスに渡る。教会を恐れるダーウィンに会い、賞賛を浴びまくった後、進化論反対者について一緒にグチる。帰国後は父の経営していた果樹園を研究施設に改築し、中断していた蜜蜂の交配、太陽の黒点観測を再開する。ふと「自分も妹もいくら駆けずり回っても小太り体質から逃れられないのは父からの遺伝によるものではないか」と思い立ち、やせっぽちの女性と結婚し、できるだけ多くの子供を生ませ、自らの子孫によって優性形質を確かめる。
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「いつか私の時代がきっと来る」
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2005年08月26日

ローザ・ルクセンブルク(1870-1919)…ポーランド→ドイツ/革命家、マルクス主義理論家

<殴られ撃たれ棄てられて>

●暗殺・殺害:ローザの場合

ポーランドとドイツで活躍した共産主義革命家ローザ・ルクセンブルクは、1919年1月15日、同士とともに殺された。

その日の夜9時、隠れ屋にいたローザたちは、民族主義の反革命グループに拘束され、ホテルに連行される。同士のカール・リープクネヒトが先に殺されると、ローザは屋外に連れ出され、銃尾で2度殴られ頭蓋骨を打ち砕かれた後、瀕死状態で車に乗せられた。車内では再び殴られ、脳髄を撃ち抜かれた。

彼女の死体はそのまま、リヒテンシュタイン橋に運ばれ、運河に投げ棄てられた。

司法当局はブルジョアジーと結託し、はじめは反革命軍のこの犯罪をもみ消そうとした。が、5月に彼女の遺体は発見されると、事件をマスコミに報じられ、隠し通せなくなる。

とはいえ、法廷は犯罪者の味方だった。殺害に加わった貴族はみな無罪となり、それ以外の者も最大で懲役2年の罪にしかならなかった。ローザに最後の一撃を放った中尉は、判決後に偽のパスポートでオランダに逃れ、恩赦に。彼女の「ブルジョア的合法性は支配階級の暴力を正当化する」という考えを裏付けるような幕切れである。

さらに、彼女の同士や支持者たちも大半が収監され、射殺された。遺稿の多くも失われたが、これがなけりゃ、もうちょい彼女、知名度高かったのでは。

反革命軍の動向は、ヒトラー台頭の呼び水となった。ナチズムが勝利した1933年、「帝国主義断固反対」を叫んだローザ虐殺を組織した者は高位に就き、事件をもみ消そうとした検事はナチス人民法廷の長官だった。

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●人生のポイント

わかっているだけでも5度投獄されたローザ。虐殺の2ヶ月前も、獄中で暮らしていた。

反戦活動をしていたローザは、第1次世界大戦が勃発すると有罪判決を受け、3年半収監された。檻の中から彼女は文書を送り続けて仲間を励まし、スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)を結成。『社会主義の危機』を匿名ユニウスで出版し、党の戦争協力を糾弾したのも、服役中だ。……彼女にとっちゃ、獄中のほうが安全だったのかも。

1918年の出獄後、ローザは同士カールとドイツ共産党を設立。年末の党大会で生涯最後の演説を行い、「革命の勝利へ確実な方法を準備せよ」と警告した。

その後、いつ捕まり殺されてもおかしくない状態にありながら、彼女は無防備だった。戦闘地域の真っ只中でも群衆にまぎれて激しく議論しあった。『ローテ・ファーネ(赤旗)』編集局のある建物が機関銃で掃射されると、彼女は戸口にいた政府軍の部隊を覗き込み、敵対者たちを直接説得した。

ローザと間違えられ、逮捕されて殺されかかった婦人は、彼女にベルリンを離れるよう勧めた。が、ローザはきっぱりと拒絶し、「労働者たちを意気消沈させないためにも、自分はベルリンに留まらねばならない」と言い張った。

彼女は目的のために自分を犠牲にすることを辞さなかった。きっと、死ぬ覚悟はできていたのだろう。歴史に名を残す革命家にとっちゃ土壇場に「死にたくない」なんてのは禁句で、自分の生活や命より大事なものがあるなんてのは当たり前なのである。

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●もし殺されなかったら

一党独裁に反対したローザのジワジワした戦略でヒトラーの台頭が防がれ、第二次大戦は起こらず、世界の歴史は翻った……といいたいトコだが、偽装結婚でドイツ市民となったものの、彼女はポーランド出身のユダヤ人。周囲のアドバイスを無視して頑なにベルリンに留まるが、協力者たちに匿われつつ1940年まで生き延びるのが精一杯。アウシュビッツが開所すると年老いたローザは真っ先に捕らえられ、もっとも悲惨な形で母国の地を踏む。大学入学時には自然科学科に在籍した自分の運命を、同じポーランド出身で3歳年上のマリー・キュリーの華々しい活躍ぶりとこっそり比べつつ、結局ガス室で虐殺されてオシマイ、という可能性のほうが高そう。
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「世界はどれほど恐ろしいことがあっても美しいのです」
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2005年08月23日

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)…オランダ/画家

<売れなかった125億円>

●自殺:ゴッホの場合

ゴッホは37歳で自らの命を絶った。

自殺の一因は彼の精神病だった。1988年、ゴッホは不眠と夢遊状態に悩んだ。年末には最初の発作が起こり、かみそりでゴーギャンに切りつけるが、結局ゴッホは自らの右耳を切り落とし、それを愛する娼婦に送りつけた。なぜ耳なのかはわからない。

翌年2月にはゴッホの住むアルルの住民たちの抗議により、彼は入院監禁させられた。5月、サン・レミの病院に移るが、ここでも発作を繰り返しては錯乱し、幻覚を見た。それでも時々は、比較的自由な環境のもとで絵を描いていた。

ところで、ゴッホを経済的に支えたのは4歳年下の弟テオである。この頃、弟に子供が生まれ、ゴッホはテオの経営する画商の経営難を知る。この時、ゴッホは自分が弟の家族の経済的負担になっているのを耐え難い負い目に感じたらしいが、それまでどう思ってたんだろう。

以降、彼の精神錯乱はひっきりなしに繰り返された。石炭箱の中にひっくり返っていたり、小使がランプに入れている石油を取り上げて飲んでしまったりすることもあった。

1890年7月27日、ゴッホは麦畑で自分を撃つ。銃弾は胸の下から入り、背骨のそばで止まった。いったん気絶して倒れこんだが、やがて意識が戻ると、ゆっくり歩いて自宅に戻った。宿の人々は床に滴る血痕で彼の怪我に気づいたという。昏睡を続け、29日没。死に目を見た弟テオも精神を病み、約半年後、兄の後を追うように死んだ。

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●人生のポイント

もともとゴッホは画家として絵を描き始めてから10年しか生きていない。彼は聖職者になろうとして挫折し、27歳の時に絵の道を決意して、技術のほとんどを独学で身に付けながら画家を始めたのである。

が、よく知られている通り、生前、彼の絵はまったく注目されなかった。彼が肖像を描きプレゼントした知人は、ゴッホの死後もしばらく、鶏小屋の穴ふさぎとしてその絵を使っていた。

死の直前、『赤いブドウ園』が400フランで売れた。これがゴッホの生前に売れたたった1枚の作品だが、初めて自分の絵が売れたという事実も、ゴッホを立ち直らせることはできなかった。10年に1枚しか絵が売れないんじゃ、彼を画家と呼ぶのも微妙な気がする。

ゴッホが評価を集めるようになるのは20世紀に入ってからのことである。彼の人生が本となり、映画となって知れ渡るにつれ、その絵の評価もうなぎのぼりに上昇していった。

ちなみに、死の前の3ヶ月前にも、ゴッホは画家らしい方法で自殺を図っている。彼はいきなりチューブをつかんで、人体に有害な絵具を口へ押し込んだ。この自殺未遂は発見が早かったので大事には到らなかった。これなど自殺を試みているのか、ただ頭がおかしくてやってるのか、よくわからない気もする。1990年に『医師ガッシェの像』は125億円で落札されたが、彼の壮絶な人生の終焉を抜きに、これほどの高値がつけられたのかは疑わしい。

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●もし自殺しなければ

日本を理想のユートピアと考え、浮世絵を収集し研究したゴッホ、10年間精神病院に入院すると、退院後に念願かなって来日。彼の作品の評価が世界的に高まってきたこともあり、しばらくは快適に過ごす。が、冬になり日本人たちが咳き込むと、周りじゅうが自分の名を呼んでいるのではないかという自意識過剰が生じて再び発狂。残っていた左の耳も切り落とし、両耳を失う。その姿を見た日本人たちは「絵を描く耳なし芳一」としてゴッホを尊ぶが、結局彼は日本への幻想が勘違いだったと思い始めて帰国。後に「ドラえもんのモデルはゴッホだった」という都市伝説が生まれたり、口裂け女と比較されて論じられたりしつつ、神話的人気を保つ。
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「牢獄は時としてしばしば、次のような名前を持つ。偏見、誤解、無知、そして猜疑心」
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2005年08月19日

ジャンヌ・ダルク(1411か12‐31)…フランス/バロア王家を支援した少女

<利用価値の高い女>

●死刑:ジャンヌの場合

ジャンヌは「神の声」に忠実に従った女性である。

イングランド軍に包囲され、自暴自棄になっていたフランスの王子シャルル7世。ジャンヌは神のお告げどおりに、彼の復権をかけて戦う。オルレアンの兵士を率いて、包囲したイギリス軍を撃破し、狙い通りにシャルル7世は戴冠する。

が、落馬がもとでブルゴーニュ軍の捕虜になった彼女は、イングランド王家に売られてしまう。オルレアン側が身代金を支払えば彼女は釈放されていたはずだが、何の助けも得られないまま幽閉の身に。

その後、ジャンヌは戦争裁判でなく宗教裁判にかけられる。ジャンヌに対して行われたのは、無実の人間をあらゆる詭弁で有罪とし処刑する、典型的な魔女裁判だ。彼女を悪魔の手下だということにすれば負けたイギリス側も面目が立つのである。

起訴状の内容は、でたらめながらもメルヘンチックで「彼女は、樫の森で遊んだり妖精の木のまわりで踊ったりしていたことでわかるように、子供のときから魔法使いだった。彼女はたえず悪魔と通じているが、それを天使や聖女たちであるといいたてている。いつも身に着けている指輪や軍旗には、魔法がしかけられている」等々、全70条に及ぶ。

とはいえ、「王冠を持った天使が空から降りてきた」などと法廷証言するジャンヌを理解するのも難しい。今の日本だと刑法第39条で無罪になるとこだろうけど、神に背く異端女とされたジャンヌ、有罪→火刑となる。

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●人生のポイント

火刑の際には、ジャンヌの身につけている衣服が火刑台の上で燃え尽きたのを見計らうと、死刑執行人はいったん火を遠ざけ、彼女の全裸を人々の前に晒し、本人であることに疑いの余地が残らないようにした。燃え盛る炎の中で「イエス様!」と叫んで息絶えたジャンヌの体からは1羽の白い鳩が飛び立ち、それを見たイギリス人は「われわれは聖女を焼き殺してしまった」と恐れおののいた、らしい。

また、純潔を証明するため処女検査が行われたり、兵士に陵辱されかかったりと、幽閉時にも彼女はずいぶんセクハラな目にあっている。いちいちビジュアル的にできすぎたサディスティックな逸話だらけだが、実際、彼女を題材にした演劇や映画は非常に多い。それらのほとんどは真実をよりわかりにくくしているが、ジャンヌの高感度・知名度を上げてもいる。

実際のところ、16世紀以降のジャンヌは歴史の中に埋没しており、王室では彼女の名が中傷とともに語られていた。ところが1803年、ジャンヌ記念像を再建しようとするオルレアン市の企画に、当時の国家主席ナポレオンが「フランスの独立が脅かされる時には、優れた英雄が出て必ず奇跡をもたらしてくれることを、ジャンヌ・ダルクは証明している」という推薦の辞を記した。これによりジャンヌの歴史における評価が決定付けられ、自分を彼女になぞらえたナポレオンの評価まで高まった。

つまるところ、ジャンヌは死んだ後まで、ものすごく利用価値の高い女だったのである。

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●もし無罪になっていたら

聖女ジャンヌが解放されると、雨後のタケノコのようにヨーロッパのあちらこちらから「私は神の声を聞いた」「天使を見た」という奴があちらこちらから現れる。そのうち権力者にとって使えそうな人材は生かされ、戦争などの道具として利用される。生かしといてもあんまり何の得にもならなそうな者たちは、魔女裁判にかけられ、火あぶりなどによる大量虐殺で一斉清掃。こっそりフランスに戻されたジャンヌのほうは、複雑な想いを抱えつつもひっそり暮らし、生まれた息子ノストラダムスをいつか王家シャルルの役に立つ人間に育てようと、医学を学ばせる。

ただし、これは仮に、ジャンヌがはじめから無罪判決を得たとして。1920年ローマ教皇庁はジャンヌを聖女に列し、1956年には判決の無効とジャンヌの復権を認めているので、「もし」なんて話でなく、すでに彼女の無罪は確定されているといえる。
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「行動することです。そうすれば、神も行動されます」
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2005年08月16日

ルードヴィッヒ・ベートーヴェン(1770-1827)…ドイツ/作曲家

<遺書を書く>

●身体障害:ベートーヴェンの場合

ベートーヴェンが難聴に気づいたのは27歳頃。悪化してゆくばかりの症状は音楽家として致命的だと自覚していた彼は、聴力の衰えに気づかれないよう交際を避け、偏屈で人間嫌いな気難しい人間になってゆく。

1802年の秋には自殺を決意し、2人の弟に宛て、その意を書き記す。これは書かれた場所にちなんで「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる。6年間無能な医者に容態を悪化させられてきたこと、回復するだろうという期待を抱いては欺かれ続けたこと、「もっと大きい声で話してください! 私はつんぼですから!」と自分の弱点をさらけ出すことがどうしてもできなかったこと、人の集まりに近づくと自分の症状を気づかれるのではないかという恐ろしい不安を感じていたことなどがここに記されている。

1815年の秋からは、ベートーヴェンはまったく耳が聞こえなくなった。

1822年に歌劇『フィデリオ』の指揮を彼が務めようとしたが、指揮棒が示すめちゃくちゃなテンポで大混乱に陥った。友人の「演奏を続けないで下さい。訳は家へ帰ってから」という走り書きを見ると、ベートーヴェンはまっすぐに駆けて自宅へ帰っていった。

晩年には木製の棒を口にくわえ、その一端をピアノの上に乗せて音を聞いていたとも言われる。エジソンが音を感じた方法によく似ている。ベートーヴェンやエジソンでなくとも、誰もが老いれば耳は遠くなる。どうやら歯は大事にしといたほうがよさそうだ。

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●人生のポイント

「ハイリゲンシュタットの遺書」には、彼が生きる希望を見出す過程が綴られている。

「自ら自分の命を絶つまでにはほんの少しのところであった。私を引き留めたものはただ『芸術』だけである。自分が使命を自覚している仕事をし遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ」(中略)「不幸な人間は、自分と同じひとりの不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍しめられるがために、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!」

結局、生前は誰の目にも触れなかったこの文を信用するなら、1796年から耳の病気が始まったことになる。それ以前の彼の作品は3つのみで、これを記した後、傑作を立て続けに作曲している。「英雄」*1、「運命」*2、歌劇『フィデリオ』などは、「悩みを突き抜けて歓喜に到れ」という、彼の残した金言を表すかのような苦悩と歓喜を感じさせる。また、「皇帝」*3「田園」*4「悲壮」*5などの名作も聴覚なしに作られたものだ。

1824年「第9」*6初演時、ベートーヴェンは演奏後の歓声と大喝采の拍手に気づかなかった。客席を向いてステージに立たされた彼の目の前には、気違いじみた熱狂が生じており、感激のあまり泣き出す観客もいた。アンコールは5度目に警察官によって制止。

演奏会の後ベートーヴェンは、「感動のあまり気絶」した。マンガの中だけでしか起こらないと思われているような珍しいことをする人である。

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●もし身体障害がなかったら

自らの悪筆により「テレーゼ」が「エリーゼ」と読まれていることに気づいたベート−ヴェン、作品名を「テレーゼのために」と修正。「死ぬ術を悟らぬ人間は気の毒だ。私は15歳ですでにそれを悟っていた」という憂鬱症の彼は、度重なる失恋など比較的瑣末な苦悩に打ちひしがれ、何度も遺書を記す。すべての曲にちょっとずつ深みが欠け、現在「ジャジャジャジャーン」で知られる「運命」*2は、「ピャピャピャピャ〜ン」の軽さに。死後、「ウィーンの遺書」「ボンの遺書」「ボヘミアの遺書」など、彼が各所で記した遺書が次々発見され、出版社は書籍『遺書で味わうベートーヴェン』を刊行。旅行代理店による「ベートーヴェン遺書ツアー」なども話題に。
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「真に称賛すべき人間の特長は、逆境に直面した時、強い信念のもと、自分の生き方を貫けることだ」
注 ■プロフィール・参考文献
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2005年08月12日

アンリ・ファーブル(1823-1915)…フランス/昆虫研究家、博物学者

<欲しいときに、ない>

●貧乏出身:ファーブルの場合

54歳で『昆虫記』1巻を書き上げるまで、ファーブルの人生は金運に見放されっぱなしだった。

年若い両親の生活が苦しかったため、3歳のファーブルは山奥にある祖父の家に預けられた。7歳で学校に上がるため両親のもとに戻るが、やがて家族はその日の食べ物にも困るようになる。家計の足しにとアヒルを飼い、ファーブルはその番をしたが、収入は安定しない。なんとかせねばと両親がカフェ経営に乗り出したのはファーブル10歳の時。

が、経営はうまくいかない。転々と引っ越してはカフェを再開するが、結局破産する。家族は分散し、仕方なく家を出た14歳のファーブルは、道路建設工事の土木作業員などの仕事で日々の飢えをしのいだ。今の日本だとまだ中学生……。

その後、給費生として師範学校を終えた彼は、7年間小学教師を務めた。26歳から退職までは中学教師として働くが、教員適格免状もなしに独学叩き上げで物理、数学、自然科学の学士号と理学博士号を取得して成り上がった彼は、職場で反感を持たれ、孤立していた。しかも、年棒は退職まで21年間ずっと同じだった。

金がなければ大学教授になれないと知ったファーブルは、ひと財産稼ごうと、教職の傍ら8年間をアカネ色素抽出の研究に費やす。が、安価な化学原料のアニリン色素がドイツで開発され、ファーブルの研究は金にはならないことが確定した。

仮にここで金持ちになってたら、『昆虫記』が存在したかは微妙である。

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●人生のポイント

幼いファーブルが住んだ祖父の家には、隣近所がなく同年輩の友達がいなかった。代わりに牝牛、羊、豚、鶏、犬などの動物がおり、これらを遊び仲間にした。アヒルの番を務めたときには、餌となる池の生物などに興味を広げ、玩具の代わりに虫、魚、キノコ、小鳥と戯れた。

小学教師時代のファーブルは、目標の大学教授になるまでひたすら勉強に打ち込むつもりだった。が、コルシカ島に中学教師として赴任すると、結局生物観察を優先させてしまう。島には彼の気を惹くさまざまな生物が溢れていたのだ。博物学者とも知り合い、文通を始めた。机上で得られぬこれらの体験は、後に記す『昆虫記』に生かされる。

大学教授への道を諦めた後、ファーブルは夜間学校で植物の受精の話をした。これが周囲から「不道徳」「破廉恥」と大反発を食らった。この件をきっかけに彼は教職を辞し、収入を文筆に頼ることにした。

こうして生まれたのが平易な文体の『昆虫記』シリーズである。類書が出回るまではよく売れ、中学教師時代の10倍もの収入を得る年もあった。

晩年のファーブルはノーベル文学賞に推薦され(結局受賞せず)、猫も杓子も著書を争って読むほどの名士となり、「餓死に瀕した天才」などと実際以上に貧しく言いふらされた。すでに貧乏人でなくなった彼は、洪水のように寄せられる寄付をひとつひとつ返送し、匿名の寄付は貧しい人々に与えた。一見律儀だが、内心「ちっきしょう今さら」ってとこかも。

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●もし貧乏出身でなかったら

両親が経営する流行のカフェを手伝う青年ファーブル、砂糖にたかるアリやゴキブリを退治しようとせず、その観察に熱中してばかり。あきれた親に店から離れろと言い渡され、コツコツ自習し、順調に大学教授となる。早い時期にアカネ染料の実用化に成功して羽振りがよくなった彼、フランスのファッション界を支える染料学者として社交界にデビュー。リニューアルしたカフェ・ファーブルはスノッブなフランス人の溜まり場になる。やがて彼は動物観察より人間観察に興味を持つようになり、昆虫採取よりマドモアゼル採取、フンコロガシよりも土地転がしに精を出す。が、ドイツで科学染料が開発され、店内を行き来する虫が噂になると、カフェの人気はガタ落ちに。それでも不動産収入で暮らしは安泰。
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「あなたの不幸がいかに大きくても、最大の不幸は絶望に屈することでしょう」
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2005年08月09日

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)…ドイツ/思想家

<人間だというのは偏見>

●精神病:ニーチェの場合

「弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これがすなわち我々の人間愛の第一命題である」こう記したニーチェ、晩年は自らが精神の病に陥った。

1889年1月、ニーチェはトリノの街路上で倒れ、2日間昏睡を続けた。目覚めた彼は梅毒による精神錯乱が発症して、町をさまよいながらむやみに歌い、通行人に近づいては「私は神だ。こんな姿に変装しているのだ」と自己紹介。もはや彼でなくなってしまった彼から「アリアドネ、私はあなたを愛する。ディオニソスより」というラブレターらしき文書を受け取ったのは、作曲家ワーグナーの未亡人、コジマだった。下はその内容。

「私が人間だというのは偏見です。(中略)私は人間が経験できるすべてのことを、卑小なことから最高のことまで知ってはいます。しかし、私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアでは、ディオニュソスでした。――アレクサンダーとシーザーは私の化身です。最後にはヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ワーグナーであったかもしれません。(中略)私は十字架にもかかったことがあります」

記された言葉は誇大妄想的で矛盾だらけで分裂病者の書いたものにしか見えないけれども、超人的かつ超越論的でとってもニーチェらしい。結局、発狂から死までの11年間、彼は著作も会話もできず、それまで得たことのないほど自分への名声が高まってゆくのもわからぬまま、死を迎えた。

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●人生のポイント

発症の直前に完成した『この人を見よ』の中で、ニーチェは「なぜ私はこれほど賢いのか」と自己讃美を書き連ね、自らの正常さを必要以上に強調している。これらは来るべき状態をひどく意識した冗談のようにも見える。

「ある医者は、私をかなり長い間神経症患者扱いをしていたが、しまいにこう言った。『いや! あなたの神経は何ともない。私の神経が心配症だったのです』と。私の体のどこかが部分的に弱いなどということはまったく指摘できない」「私にはどんな病的傾向もない。人々が私という人間の中に狂信性の傾向を捜しても無駄である。私の生のどの瞬間を取り上げても、そこに何らかの思い上がった、大げさな態度を指摘することはできまい」

彼の精神錯乱の原因は、若い頃に遊んだ売春婦から梅毒菌を移されたため、とする説が有力である。29歳頃からすでに症状は始まっていたようだ。極端に悪化した35歳の時、ニーチェは死を覚悟し、この年を「わが生涯の最も暗い冬」と呼んだ。

頭痛、嘔吐、めまいは年を重ねるに伴い激しくなり、視力も急速に減退して、発狂した44歳からは完全な進行麻痺(梅毒感染後、長い潜伏期間を経て起こる脳疾患。痴呆症状を示し、手足が痙攣、体が麻痺し、人格が完全に崩壊して死に到る)となったようだ。無邪気な欲望や感情を賛美したニーチェ。晩年の姿はその思想を完全に体現しただけなのではないか? という恐怖感を呼ぶところが、この人の魅力のひとつ、なのかも。

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●もし精神病にならなければ

口を開けば既成の道徳や近代の学問、宗教、政治を批判しながら老いてゆくニーチェ、やがて意味を持つもののすべてがバカバカしく感じられるようになり、意味も目的も根拠もなくただその日その日を欲望に任せて幼子のようにはしゃいで暮らすようになる。晩年のお気に入りであるビゼー「カルメン」をオルガン演奏しては踊りまくり、街で動物が通るたびに抱きつく。その姿はとうとう彼はボケてしまったのかという周囲からの誤解を生むが、作曲家ヨハン・シュトラウスと交わり、合唱隊を加えて「ツァラトゥストラ」を共同発表して名誉挽回。妹エリザベートと顔をあわせるたび「ユダヤ人差別はおかしい」「教会での葬儀はよせ、やるならせめて寺にしろ」「俺の書いたものを改竄するな」などと告げ、最期は老衰死。
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「もはや誇りをもって生きることができないときには、誇らしげに死ぬべきである」
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2005年08月05日

マルコムX(1925-65)…アメリカ/黒人解放運動指導者

<檻は塾より効果的?>

●逮捕・有罪:マルコムXの場合

幼い頃から環境に恵まれなかったマルコムは、20歳で刑務所行きとなった。

マルコムが3歳の時、自宅をKKK(クー・クラックス・クラン=「アメリカ出生主義」及び「白人およびプロテスタント優越主義」のテロリスト集団)による放火で燃やされた。5歳になると、国際黒人地位改善協会の熱心な活動家かつ牧師であった父が、おそらくは白人の手により暗殺。やがてマルコムの家族は生活保護を受けるようになり、母は精神を病んで精神病院に入院する。

マルコムは福祉担当者の措置により近所の黒人の家から通学することになったが、万引きを繰り返すなどして13歳で退学処分を受け、少年鑑別所から彼以外全員白人の中学校(!)へ通うことになる。ここでは成績優秀な校内の人気者となり、彼は弁護士となることを志望するが、教師から「黒人であるという現実を忘れてはいけない」と大工になることを勧められ、以来、白人を避けるようになる。

15歳になるとマルコムはボストンで靴磨きの仕事をしたが、16歳でニューヨークに移る。徐々にギャンブル、麻薬取り引き、売春、ゆすりなどに手を染め、ギャング団の一員となり、ついにはハスラーとしてひとり立ちする。17歳では徴兵を逃れるため、精神異常者のフリをして、狙い通りに兵役不適格となる。ここまでだと15、16、17とマルコムの人生暗かった。で済むが、20歳の時に強盗で逮捕、10年の実刑判決を受ける。

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●人生のポイント

壮絶! とはいえ、これではまだ「ありがちなラッパーの半生」の域を出ない。話はここからだ。

中卒のマルコムは、刑務所内で英語とラテン語の通信教育を受け、めきめきと語学力をつけてゆく。入所して2年後には親戚の助力を得、実験的な犯罪者更正刑務所に移り、辞書を書き写し、音読し、復習してボキャブラリーを増やした。さらに、毎晩3〜4時間しか眠らないで、あらゆる分野の本を読みまくった。受験生でもここまでしないだろう。白人がいかに世界中の有色人種を搾取してきたかを彼が初めて知ったのも、刑務所内の本からだった。

やがてマルコムは、家族からの手紙がきっかけで白人を悪魔とみなすNOI(=ネイション・オブ・イスラム。アフリカ系アメリカ人によるイスラム教の最大派閥)の教義に傾倒し、この宗教団体の指導者ムハマドに毎日のように手紙を出すようになる。27歳で仮釈放となって出所し、すぐNOIに所属。間もなく初めての説教をすると、刑務所内で学んだ知識に基づくその雄弁さに、誰もが驚いた。日本の刑務所も更正施設を充実させれば、彼のような優秀な人材が続々登場する、かも。

次々活躍を続けたマルコムだが、ムハマドが個人秘書を女にだらしないこと、自分への暗殺計画が進められていたことなどに幻滅。NOIを去り、別の団体や組織を設立し、黒人解放運動指導者として、新しい展望によって黒人の完全な独立、自由・平等・正義などを実現しようとした矢先、39歳で暗殺された。

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●もし無罪になっていたら

賭博、売春、恐喝、ヘロインの密売と高利貸、強盗などを主な財源として一大帝国を築き上げ「黒いアル・カポネ」と呼ばれる暗黒界の若きドンになる。浮浪者、失業者、売春婦、麻薬中毒患者、全科者など社会の底辺で喘ぐ弱者を情報収集に利用する代わりに、援助の手を差し伸べる。やがて、誰かがマルコムを常に尾行するようになり、脅迫状や脅迫電話が日常茶飯事となる。65年1月、マルコムは自宅の前で襲撃を受け、翌月には家に火災瓶を投げ込まれる。同じ年の2月20日、3人の男がマルコムに駆け寄り、銃を乱射。すぐさま病院に担ぎ込まれたが、39歳の短い人生を終えた……って、途中から全然「もし」じゃなかったりして。
malcolm.jpg

「信念を持たない人間は、すべてのことに流される」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 逮捕・有罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

トーマス・エジソン(1834-1901)…アメリカ/発明家

<無形の宝物>

●身体障害:エジソンの場合

発明王エジソンは、ひどい難聴だった。

自分の耳が聞こえなくなったのは、幼い頃に鉄道で一緒に働いた車掌のせいだ、と彼自身は語った。電車の販売員だったエジソンが、列車内に作った実験室で火事を起こしたとき、怒った車掌が耳のあたりを殴って鼓膜が破れたという説や、新聞を抱えて電車に飛び乗ろうとしたエジソンの体を、車掌が耳をつかんで持ち上げた時に「頭の中でプツンと何かが切れる音がした」話などは、彼の難聴の原因として知られているものだ。

真相は、幼年時代のしょう紅熱の後遺症で中耳が冒され、これらの事故でさらに悪化したようだ。13歳になってからは、小鳥のさえずる声を聞いたことがなかった。彼は聴覚の喪失を、学校に行かなかったことと共に「無形の宝物」と呼んだ。一見強がりにも聞こえる難聴についての彼の発言は、以下。

音に惑わされることなく考える事ができるし、いつでも静かな環境で眠ることができる。俗人と交わることもなく、退屈極まりない社会的な関りに背を向ける口実ができたし、いたって生産的な思考ができるようになった。仕事の上では口約束や耳約束ができないため必ず書面で契約することにしたため、不必要な問題からしばしば解放された。婚約者を口説くときには普通より相手のそばに近づくことができた。結婚してからは嫌なことを聞かなくても済んだ。聴力の異常を感じ始めた頃は読書に没頭した。今では雑音が耳に入らないことを幸運だと思っている。

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●人生のポイント

「もし私があなたのように偉大な発明家であったら、世界中の聾者がみんな聞こえるようになる機械を発明するのですが」対面した折、こう語ったヘレン・ケラーに対し、エジソンは答えた。「あなたはそんなことを考えておられるのですか? 私ならそんなことをしたってヒマつぶしにしかならないと思います。人間というものは、聞いても聞かなくてもいいようなことばかりしゃべっているものですからね」

実際、依頼がありながら、エジソンは補聴器を作ろうとは考えもしなかった。また、自分が生んだ蓄音機にも冷淡だった。「『必要は発明の母』というが、必要もないのに発明されてしまったものだ」といい、商品化するまでに10年近く放置した。

耳を頼れなかったエジソンは、金属板を歯で噛み、振動を顎の骨に響かせるという方法で音響テストを行った。ピアノを噛んで音を聞いていた証拠に、愛用していた彼のピアノには、側面に彼の歯型が残っている。第一発明者であるベルの電話を出し抜いて、エジソンの製品が世に認められたのは、この厄介な方法で改良を加えた電話のほうが、はるかに音声を聞き取りやすかっためだといわれる。

「麻薬中毒と同じで、雑音中毒になっている人があまりに多いのではないだろうか」と語ったエジソン。聞くべきものも聞き取れなくなりそうなほどに音が溢れる現在、彼の言葉はずいぶん説得力を増している。

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●もし身体障害がなかったら

補聴器、玄関チャイム、防犯ブザー、拡声器、着メロ機能つき電話、トイレの水洗擬音装置など、実用性のある音を利用した製品を次々発明。ウォークマンの製造に先立つこと100年、携帯用小型ステレオ再生装置を製品化し、音声を聞けるだけでなく、知らない人に話し掛けられにくくなる道具として大反響。録音機能つき小型スピーカーも完成させ、「潮時の恋人とうまく別れるいびき音」「恨みを持つ相手に恥をかかせる放屁音」「食事中聞けば食べすぎを防げる吐瀉音」などがいつでもどこでも録再可能に。晩年には防音・消音グッズを次々に発明、20世紀末に日本で始まったカラオケ市場拡大に伴い需要爆発。
edison.jpg

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(1) | 身体障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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