2005年09月30日

パブロ・ピカソ(1881-1973)…スペイン/画家

<女、女、女>

●不倫:ピカソの場合

ピカソの絵のモデルになりたいなんて勇気のある女がよくいるものだ。彼女たちの写真が残っていなかったら、どんな奇怪な風貌の人物と思われても仕方ない。

そりゃ、最初の妻、オルガのようにまともに描かれる可能性だってある。が、『フェルナンドの顔』を見た後世の人々は、本当にこのモデルは人間だったのかどうかというところから話を始めなくてはいけなくなるだろう。小顔とほっそりしたスタイルが魅力的なはずの『マリー・テレーズ』は、実物とは似ても似つかない妖怪……青緑の肌とオレンジの爪を持った全身福笑いとなって描かれている。

そのマリーと取っ組み合いのケンカをしたドラ・マールがモデルの『泣く女』なんて、いったい何の恨みがあればこんなひどい描き方ができるのか? と思われるほど恐ろしい醜さだ。写真のドラはエキゾチックな美人なんだけど、絵のほうが有名になってしまった以上、『ゲルニカ』の製作過程を撮影した彼女も、末代まで子供たちに笑われ続けるだろう。

ピカソは言った。「私にとってドラは、常に泣く女だった。だから彼女を泣く女として描いたのだ」そしてさらに、こう付け加えている。「女性は苦しむ機械だ。私は本質を捉えたわけだ」

確かにピカソは女泣かせな男だ。女を苦しめることも平気だった。(自分についても相手についても)配偶者の有無に関わらず、常に女をとっかえひっかえする彼の生き方は、彼の絵と同じくあまりに自由で、どうかしていた。

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●人生のポイント

彼が不倫したことより、なぜ結婚したかのほうが謎なんだけど、その理由はピカソが生涯最期に発したこの一語にあるのだろう。

「女って、いいもんだよ」

ピカソは交際相手を変えるたび、画風や題材を変えた。「概していえることは、妻や愛人が変われば、彼の芸術にも変化が起こるということです」というドラの言葉どおり、女性との関係が「変貌する画家」ピカソを作った。

例えば、彼が売れっ子画家となったのは、暗い「青の時代」が終わり、「薔薇色の時代」と呼ばれる明るい色調の作風に変わってからだ。これは売春婦との交渉をやめたピカソが、オリヴィエとの同棲生活を始めたことによる。ピカソに芸術家たちとの交友関係を築いたエヴァは社交家で、彼をキュビズムに導いた。古典主義への回帰を生じさせたのは、最初の妻オルガとの出会いからだった。ピカソをふった女フランソワーズはピカソが陶芸に専念できるよう、工房をしつらえた。

ただし、ピカソと深く関わった女性たちが、幸せだったとは限らない。オルガやドラは精神を病んだ。2度目の妻ジャクリーヌはピカソが死ぬと、ピストルで自分の頭を打ち抜いた。孫のひとりはピカソが死んで3ヵ月後に漂白剤を飲んで自殺した。ピカソの娘マヤを生んだマリー・テレーズは4年後にガレージの中で首を吊った。

そんな話を聞いたところで、それだけ「ピカソって、いいもんだったんだろう」という気にさせられてしまうのが、彼の怖いとこである。

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● もし不倫しなかったら

はじめのうちは、若い女やらオールド・ミスやらを追いかけまくり、生理中の女性を描いた『青の日』、女性の首だけを題材にしたシリーズ『首ズム』で注目を集める。しばらくは女を変えるたびに画風を変えてゆくが、結婚した後は、同じ作風をしばらく維持しつつ、自分の妻を追求。妊娠し、年老いていく女性の微妙な変化を抽象的かつ過剰に描き賞賛を浴びる。が、娘が生まれるたびにそっちに関心が移り、成長を追うようになる。蚊に刺された長女を描いた『掻く女』、腹痛を訴える次女を描いた『下痢か?』などは彼の代表作に。やがて、自分の顔を怪物のように描かれた三女が失踪、ケダモノのように描かれた四女は引きこもりに。
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2005年09月27日

スタンダール(1783‐1842)…フランス/作家

<数多く緻密な遺書>

●生前不遇:スタンダールの場合

失恋ばかりをやたらと繰り返し、一度も結婚していない男の書いた『恋愛論』を、誰が読みたがるだろう。他人の意見の無断盗用を繰り返し、それを批判されても繰り返す男を、誰が信用するだろう。

スタンダールとは、そういう男だった。そして生きていた頃の彼は、無名だった。

37歳の時に書き上げた『恋愛論』の場合、出版当初、売れたのは22冊。小学生の卒業文集だって、もうちょっと出回るのが普通だ。その後2年経っても、40冊も売れなかった。今や世界各国で読まれまくっている代表作『赤と黒』は47歳の時に出版されたが、死ぬまで再販されなかった(発行した部数より売れた数のほうが少なかった)。

あと4年で寿命という55歳の冬、体が思うように動かせなくなった彼は、口述筆記によりわずか53日で小説『バルムの僧院』を仕上げた。出版の翌年、この作品は偉大なるバルザックに「世紀の傑作」と、大絶賛される。

が、バルザックの手がけた数々の事業同様、この激賞は何の好ましい反響も生まなかった。出版時、わずか13冊が売れたのみで、スタンダールは世間から黙殺され続けた。

1841年、死の1年前。すでに出版された『バルムの僧院』1ページ目に、彼はこう書き付けた。「女を3人手に入れるのと、この小説を書き上げたのと、お前にはどちらがマシだったか?」

どちらがマシ、かは謎である。ただ、彼が「『バルムの僧院』を書く労力を他にまわせば女が3人手に入るようなモテモテ人間」ではなかったことは確かだ。

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●人生のポイント

スタンダールの遺書の数は、彼の遺した作品の数よりはるかに多かった。

若い頃から精神の安定を欠くことの多かった彼は、度々死を想った。彼は世間からだけでなく、愛する女性にも拒絶され、時には自殺を考えた。22歳のときはそのための毒薬を友人に頼み、死を目前にした1840年には、自らを撃つための銃を買い求めている。

彼は20代の終わりから、何度となく遺書を書くようになった。1828年だけで4通、1835年には10回以上それを記した。

遺書だけあって、書面には様々な指示が盛り込まれた。死後出版の依頼、財産贈与、墓地の希望、原稿の遺贈。

時々、死者の言葉は生きている者より力を持つ。

別に幽霊なんか信じてなくても、死んだ人からの頼み事というのは、無視しづらいものである。死後、彼の原稿の多くが日の目を見たのは、遺書により依頼を受けた者たちの責任感によるところが大きい。

とはいえ、スタンダールにも自信があったのだろう。59歳まで生きた彼が墓碑銘「生きた、書いた、愛した」を選んだのは、『恋愛論』を書き上げた年、37歳の時だった。「結局のところ、生きる価値なんてあるのかね?」「私は自分の書いたものを読ませる何らかの才能があるという確信はまったく持てない」などと記しつつも、彼は自分を認めてくれるバルザックへの手紙に本音をのぞかせている。

「白状しますが、私は1880年には少しは有名になるだろう自恃の念を持っているのです」

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●もし生前に評価されていたら

突然受験放棄し決闘騒ぎを起こし女からフラれまくる「まずい顔立ち」のドジ男が書いた『恋愛論』がコメディ本と勘違いされて大人気。これを恥じたスタンダールが遺書ばかり書いているのに気づき、編集者が週刊誌にそれを無断連載。怒った彼だが、すでに発表した彼の美術論や伝記に剽窃が多数見出されることを各方面から指摘され、結局沈黙を決め込む。連載が単行本化されると、「コメディ作家が書いた『遺書』」と見なされ大ウケ。こっそり書き溜めていた彼の自伝も無断で出版されると、「滅茶苦茶な構成」「文中に悪筆や作品自体の弁明を入れる手法」「走り書きのいい加減な作図など、細かい部分の不正確さ」が新鮮、と、妙な礼賛がまき起こる。
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2005年09月23日

ガブリエル・シャネル(1883-1971)…フランス/ファッションデザイナー

<礼拝服をスーツに>

● 母早死に:シャネルの場合

ガブリエル(ココは愛称)・シャネルが12歳の時、33歳の母は過労と結核とで亡くなった。

後年シャネルは「母が死ぬと父は仕事でアメリカに行き、私は叔母に預けられ、父からの仕送りで育てられた」と語った。が、これは真っ赤な嘘である。母の死から一週間もしないうちに、父はシャネルを姉と一緒に修道院内の孤児院に預けると「必ず迎えに来るよ」という言葉を残し、行方をくらませた。

要するに、シャネルは父に棄てられたのである。

行商人の父は、商売で街を移るたびに女を取り替えるプレイボーイだった。シャネルが生まれた時、両親2人は結婚していなかったのもそんな理由からだ。籍を入れた後も、飲酒癖、放浪癖のある父は家を留守にしがちで、母の死にも立ち会っていなかった。娘たちと離れてからも女遊びにうつつを抜かし、酒におぼれ、詐欺師まがいの暮らしを続けていた。

シャネルのほうは修道院内で、はた織や刺繍、編物などの手芸をみっちりと仕込まれた。これは、修道院のシスターたちが孤児たちを将来自立させるために教える手仕事のひとつだった。生まれつき手先が器用なシャネルは、当時の仲間たちの間でも一目置かれており、毎年夏、修道院主催のバザーが開かれると、彼女は得意の刺繍やアップリケなどを駆使し、手の込んだものを出品した。

孤児院を出た後、シャネルは修道女とはならず、無料の寄宿学校に入学した。そこには金持ちの娘が通う有料のカレッジも併設されていた。洗練された制服を着る彼女たちと、質素な服を着たシャネルたち貧乏人集団の歴然とした差を眺めながら、シャネルは着るものについての考えを固めていった。

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● 人生のポイント

今でこそ華美なイメージで見られがちなシャネルブランドだが、彼女自身が追求したのは機能的な服であり、当時としてはシンプルなものだった。

「16歳まで、私はツーピースのテーラードスーツを着ていた。私が作るシャネルスーツはそこからきている」。成功したシャネルの発言にある<テーラードスーツ>というのは、孤児院時代、日曜礼拝の際に着せられた、上下ブルーの礼拝服のこととみられる。孤児院で暮らした事実を生涯隠し通そうとしたシャネルだが、彼女の裁縫技術のみならず、美的センスの多くは、そこで育まれたものだ。

その美学は、45歳のときに建てた別荘にも現れた。完成を見た友人たちは、その厳しいたたずまいに「修道院のようだ」とコメントしたが、実際、シャネルは建築家を自分の育った孤児院に送り、参考にさせたのである。

また、常に男性との噂を絶やさなかったシャネルだが、彼女が最も愛したのは、成り上がりのイギリス人アーサー・カペルだった。カペルは、しがない銀行員の息子で、幼い頃に親を亡くした孤児だった。似通った境遇の出であることが、シャネルと彼を強く結びつけた。

オート・クチュリエとしてのシャネルのスタートは、27歳のときにカペルの出資により開いた帽子店である。さらに、彼の援助でブティックを開店し、シャネルは成功への階段を昇っていく。

その後、貴族の娘と結婚したカペルは、シャネルが36歳の時に自動車事故で亡くなるが、自分ひとりの力で連合国大評議会書記官まで叩き上げた彼の生き方は、その後もシャネルの励みとなり、「私の成功はカペルのおかげ」とまでシャネルにいわしめた。

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●もし母親が生きていたら

まずは両親を手伝って行商人となるが、やがて「ココリコ」という歌を覚え、人前で歌って稼ぐようになる。まもなく「ココ」の愛称で親しまれるようになり、ハンサムで女たらしの父、父に従順で体の弱い母、歌唱力はないが負けん気の強い看板娘ココ・シャネルの一家は、旅回りの一座としてフランス各地をまわる。ある日、旅先のカレー屋でその味に感動したココ・シャネルは「私、このお店で歌うわ」と立ち上がって「ココリコ」を歌うと、店内はやんやの大喝采。やがて、娘の収入でカレー屋を買い取った一家は、ライブを見ながらカレーを食べられるようにステージをしつらえ、店内を大改築。一家は「ココ!」「一番!」などの声援を浴びる名高いカレー屋に。
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2005年09月20日

アンリ・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)…フランス/画家、版画家

<成長の中止による成長>

●身体障害:トゥールーズ=ロートレックの場合

伝記映画『ムーラン・ルージュ』でも知られる(トゥールーズ=:以下略)ロートレックは、15歳のときから下半身の成長が止まってしまった。

1878年5月、13歳のロートレックは椅子から立ち上がろうとして転んだ。それだけのことで、左足の大腿骨を折ってしまった。

骨折が治るのはずいぶん遅かった。最初の事故から15ヵ月後にようやく、母親が付き添えば散歩できる、というところまで彼は回復した。そんなある日のこと、散歩を楽しんでいた彼は足を滑らせ、道端の溝に落ちてしまう。そして、今度は右足の大腿骨の上部を折った。

このときから、彼の両足の成長は止まった。

フランスでも有数の貴族の家に生まれた彼は、当時としては最高の治療を試すことができたが、どんな医者も彼の足を治せなかった。時を経るにつれ、上半身だけが普通の大人へと成長してゆき、そのアンバランスさは奇形的に際立った。大人になった彼は、グロテスクな小人となった。

それにしても、ロートレックはずいぶん些細なことで骨折している。成長が止まる、というのも普通では考えられない。彼の骨はもともと脆弱だったのだろう。

骨が弱くなった理由は近親結婚、つまり、彼の両親が名家のいとこ同士であることがもともとの原因だといわれている。このため、彼の骨は遺伝的な障害(多発性骨端骨化障害)を抱えていたようだ。骨折や成長が止まったのがその結果だとすれば、上流階級にありがちな落とし穴にはまっただけで、転落などは表面的な原因に過ぎないことになる。

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●人生のポイント

「もし自分が人並みの体だったら絵を描く代わりに狩猟でもしただろう」。後年友人に語ったとおり、ロートレックが画家となったのには、事故及び、それによる肉体的な障害が大きく関与している。

はじめの事故で思うように動けなくなった彼は、もともとデッサンが得意だったこともあり、リハビリ期間中、父と親しい狩猟画家のアトリエで絵を描いて過ごした。

2度目の骨折の後、彼はますます芸術活動にのめりこんでいった。成人しても子供ほどの身長しかなかったが、異様な外見をした彼を、アートの世界はのけ者にしなかった。

ロートレックが好んで描き続けたのは、社会の隅におかれた女給・踊り子・娼婦たちだった。彼は画材道具を片手に、退廃的なキャバレーやカフェ、売春宿に日夜入り浸った。足は短かいが、なぜか彼の陰茎は普通の人間と比べても異常に発達していた。性的能力の並外れた自分を、「大きな注ぎ口のついたコーヒーポット」と形容した彼は、キャバレー及びその周辺で生きる女たちと頻繁に肉体的交渉をもった。

彼がもっとも真剣に愛した女性は、ヴァラドンというモデルだった。彼女はもともと軽業師をしていたが、ステージからの落下による怪我で職を失っており、似通った経験が2人を結び付けていたのかもしれない。一生妻帯しなかったロートレックだが、ヴァラドンとは3年間交際した。

その後、ロートレックを蝕んだのは、梅毒とアルコールだった。晩年に彼は精神病院で入院生活を送る。このあたりは1890年代の作品で類似を指摘されるムンクの人生に通じるところがあるが、彼はムンクのように健全な生活を持ち直すことはできなかった。性的に奔放なだけでなく、大食漢で大酒飲みだったロートレックは36年の短い生涯を、身体的異常とは直接関係ない理由で終えた。

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● もし身体障害がなかったら

伯爵の称号をもつ父が趣味の狩猟をするのを憧れの目で眺めていたロートレック、成人すると、すばやい動きや表情の変化をとらえる才能を生かし、ハンティングを楽しむ。ほぼ百発百中の腕前で知られるようになった彼は、得意の絵は単なる趣味とし、日々遊び暮らす。こうして最初のうちは、あくまで上流社会に生き、いかがわしいと思われる場所には出入りしないよう気をつけるが、日本趣味が昂じて葛飾北斎や喜多川歌麿の署名入りの浮世絵、墨と筆などを取り寄せ始めたのをきっかけに、趣味におぼれるようになる。手持ちのものだけで飽きたらなくなった彼は、余るほどに豊富な金にものを言わせ、芸者や日本酒も産地から次々直送。ついにモンマルトルに「吉原キャバレー」を建立する。やがて芸者とアルコールから離れられなったロートレック、結局、徐々に身上をつぶしてゆく。
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2005年09月16日

オノレ・ド・バルザック(1799-1850)…フランス/小説家

<『喜劇人間』>

●破産:バルザックの場合

フランス最大の文豪バルザックは、30歳を迎えるまでに3度の破産を体験した。

26歳で彼が出版業を手がけたのは、「金さえ貯まれば好きなときに好きなことが書ける」と思ってのことだった。それまでにバルザックが匿名で書き記したものは、仲間と合作した通俗長編小説や実用書の類がほとんどで、文学的な価値のある代物ではなかった。持ち金のなかった彼は当時の愛人、ベルニー夫人から資金提供を受けて、ラ・フォンティーヌ、モリエールの全集を発行した。

が、思うように買い手がつかない。翌年には出版業を諦め、性懲りもなく印刷業を営み始める。この時点で負債はすでに7万2千フランに達していた。

次の年の9月。印刷事業はいつまで経っても軌道に乗らなかった。バルザックは、「印刷に加えて活字の鋳造を行えば、事態が一挙に打開するだけでなく、多大な収益があげられるはず」と考え、活字製作所を立ち上げた。

しかし、新事業はうまくいかなかったばかりか、すでに火の車となっていた印刷業のほうまで壊滅的な打撃をもたらした。半年後には印刷所、さらにその2ヵ月後には活字製作所も手放さねばならなかった。

こうして1828年、29歳のバルザックは、10万フランの債務者となっていた。

とはいえバルザックは多忙な中、着実な収益を上げられる執筆業のほうも一応続けていた。ただし、この頃の彼がどんなにいいかげんなものを書き綴っていたかという事実は、28歳の時に発行された『借金を支払い債権者を満足させる法』のタイトルからも推察できよう。

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●人生のポイント

20歳の頃、バルザックは年額1500フランの切り詰めた生活をしていた。その当時よりはるかに自分が貧しくなってしまったという現実を切り抜けるため、彼は創作活動に精力的に取り組んだ。

結論から言うと、その後もバルザックの負債は増え続けた。個人雑誌や新聞を発行しては失敗を繰り返し、購入した株は急落。議会やアカデミー会員に立候補すれば大敗。土地を買い家を建てれば崩れ、あるいは差し押さえられ、安値で他人のものと化す。製材業や銀の採掘にも手を出しかかったこともあるが、自由な時間と健康を損ねるだけに終わった。

要するに、彼が成功した仕事は、文筆のほかに何ひとつなかった。

死ぬまで彼を研究し続けた伝記作家シュテファン・ツヴァイクによると「バルザックは窮地に陥らない限り素晴らしい作品を書けない男」だった。確かに、破産前の彼の作品に、みるべきものはない。「幻滅」「あら皮」「ルイ・ランベール」「セザール・ビロトー」などの最大傑作は、失望と落胆の個人的体験から生まれた。フランス文学に『ナニワ金融道』と同じ主題を持ち込んだのも、彼が最初なのである。

ところで、浪費癖激しく、見栄っ張りで派手好き、マナーも趣味も容姿も悪い醜男として知られるバルザックだが、憎めない無邪気な性格と文才及び不屈の精神はたくさんの女性をとりこにした。彼の危機を救ったのは、いつも女性だった。

死の5ヶ月前、彼はロシアの大富豪ハンスカ夫人と結婚。底抜けに金持ちな妻を得て、彼の借金は最期にチャラになった。

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●もし事業家として才能があったら

出版業や株の仲買、不動産業その他諸々によりフランス一の金持ちとなり、資金がなければ諦めていたパイナップル園経営、財宝発掘もやり抜き、政財界を中心に影響力を与えまくる。フランス人は皆バルザックに倣い、泥水かと思うような濃いコーヒーをすすり、修道服を着て真夜中から明け方にかけて仕事をし、食事中は誰もが音を立ててナイフを舐めるようになる。絵画にも建築にも服飾にも彼の嗜好が蔓延し、「文学以外すべてフランス人の趣味は悲惨なもの」となる。「家庭の幸福には苦もなく身を任せてしまうでしょう」といったバルザック、晩年間近に幸せファミリーを築き上げると、突然いともたやすく引退。ここでフランス人は目を覚ます。
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2005年09月13日

エドワルド・ムンク(1863-1944)…ノルウェー/画家

<狂人だけがこの絵を描ける>

●精神病:ムンクの場合

『叫び』で知られるムンクが、治療が必要なほどにはっきりと精神を病んだのは、45歳前後のこととされる。

きっかけは恋愛のもつれから始まった。ムンクは35歳のとき、ワイン商の娘マティルデ(通称トゥラ)・ラルセンと出会う。彼女はムンクのモデル兼恋人となって、結婚を迫るようになる。

自由を愛したムンクは、生涯誰とも結婚するつもりがなかったので、結婚の提案を度々断った。トゥラはムンクの友人たちに協力を仰ぎ、恋人と2人きりになることに成功すると、ピストルを使って狂言自殺を演じる。あわてたムンクがトゥラの手からピストルを奪おうとしたところで暴発。弾丸は、ムンクの左手中指を吹き飛ばした。

裸体のトゥラをモデルとした『罪』は、事件の前の年に作成された石版画だ。わずか二色で刷られたこの画は、見る者に複雑かつ壮絶な恐怖感を感じさせる。これを作りながら、ムンクはすでに来るべき何かを予感していたようにも思える。傷を負った彼に対し、仲間たちの多くがトゥラの味方をしたので、ムンクは大勢の友人と喧嘩になり、絶交した。

やがて、ムンクの精神は異常をきたし始める。すべての人間が自分に陰謀をたくらんでいるのではないかという強迫観念や幻覚に襲われ、アルコールに溺れる。ボロボロになった彼はあてどなく旅し、神経性の病に倒れることもあった。旅先のコペンハーゲンで3日3番痛飲した彼は、ついに自ら精神病院に入院する。

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●人生のポイント

「入院で健全を得た代わり、天才を失った」といわれるムンクの絵は1907〜9年を境に、同一人物の作品とは思えないほど大きく変化している。彼が病院生活を過ごしたのは、45〜46歳の時であり、この時期が彼の入院期間に当たる。

つまり。精神病になる過程でなく、治療の段階で彼の絵は変わったのだ。『病める子』『叫び』『マドンナ』『不安』といった、人間の内面世界を視覚化することで衝撃を与える、いわゆる「ムンクらしい」作品は、入院以前に集中している。

精神病院での生活は快適で、外出も自由だったので、ムンクにとってそこはよい仕事場となった。「自己の体験を描くことが薬になる」というパトロンの言葉どおりに彼は描き、病から脱していった。

退院後、ムンクの作品は「ムンクらしくない」ものになった。「苦しみを取り除いてしまえば、私の芸術は破壊されてしまう」「芸術は自然の反対である」「芸術作品は人間の内部からのみ生まれる」と述べたはずのムンクは、自らの発言をないがしろにするかのように、朗らかで陽光が溢れ、生命への賛美に満ち、幸福を感じさせる健全な絵を次々と仕上げ、自然物のみを描くことも多くなった。

これらの絵は「駄作」とされがちだ。が、退院後の7年間を、ムンクは生涯でもっとも幸せと安らぎの中に生きた。

入院以前の彼を「死におののく異常感覚者扱いしすぎ」という意見は一理あるだろう。それでも、代表作『叫び』の油絵版に記された、「狂人だけがこの絵を描ける」というムンクの言葉と、入退院により彼の絵が一変したという事実は揺らがない。

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●もし精神病にならなければ

事件後に精神病が発症しなかったら:左手のなくした箇所を題材にした『指』、その後の気ままな放浪を描いた『旅』を完成。『叫び』『指』『旅』は三美作と呼ばれるようになる。精神病になった妹の気持ちをヒトゴトのように感じつつも、彼女を題材にした作品を矢継ぎ早に発表。常に人の体から妙な色の人魂みたいなものが記されたこれらの作品は、以前完成させた「生命のフリーズ」の続編と「精神のフリーズ」としてまとめられる。

はじめから彼にまったく狂気がなかったら:彼の作品は「狂気の沙汰」といわれて批評家たちに大顰蹙を買うことも、ナチスに頽廃芸術の烙印を押されることもなくホドホドの評価を受ける。「よくありがちな画家」としてテキトーな活躍ぶりをみせて彼が一生を終えると、作品も彼自身も時代とともに忘れ去られる。munch.jpg
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2005年09月09日

マイケル・ファラデー(1791-1867)…イギリス/科学者

<最大の発見>

●学歴なし:ファラデーの場合

鍛冶屋の息子ファラデーの家族は貧しく、彼が9歳の時、一家は生活保護を受けねばならなかった。

12歳になったファラデーは、小学校すら出ないまま製本屋の配達人として働き始めた。翌年には年季奉公人となり、製本技術を身につける。勤勉なファラデー、作業の手を抜くことはなかったが、仕事の傍ら、店にある科学書や百科事典などで科学の知識を吸収していく。さらに暇を見つけては、近所の公開講座に出かけ、独学で器具を作り科学実験を行った。

ファラデーが21歳の時、製本屋の常連客が、科学者ハンフリー・デーヴィーの公開講演に彼を聴講させる。このときの感動を、ファラデーはどうしても忘れられなくなってしまう。半年後、7年間の年季奉公を終えた彼は、製本職人として就職しつつも、講演の記録ノートとともにデーヴィーに手紙を出す。こうして彼と会見を果たすが、返事は「今は助手の空きはない」ので雇えない、とのこと。

しかし、数ヵ月後に専任の助手が辞職。デーヴィーはファラデーを雇い、王立研究所の屋根裏の2部屋に彼を住まわせた。ファラデーは結婚後も夫婦でここに暮らし、46年間寝泊りした。

成功後は数え切れないほどの大学から名誉博士号を授かったファラデーだが、学歴ナシ子供ナシ家ナシ。王立協会の会長職も称号も勲章も断りまくったが、67歳のとき、女王の与えた住居に妻と移住。もっと早けりゃジュニアくらいいたかも。

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●人生のポイント

学歴のないファラデー、生涯数学は苦手で、数式化ができなかった。

おそらくはそのために、直感による彼の発想は素早く鋭かった。「ファラデーの法則」で知られる電磁気学での分野のみならず、ひとりの人間とは思えないほど多岐にわたる業績を彼は生んだ。マクスウェルをはじめとする多数の科学者たちは、ファラデーの残したイメージを発端に数学的基盤を組み込み、功績を得た。

学校でなく公開講座で学んだファラデーの事業に「子供でもわかる」ことを目標にしたクリスマス講演がある。これは現在も人気の公開講座で、今や古典となった『ろうそくの科学』(角川文庫)は、ここで話したファラデーの講演内容を修めたものだ。

ちなみに、素人にわかりやすい数式の少ないファラデーの著書は、後に小学校中退者のエジソンを発明王に導いている。

それにしても、笑気(一酸化二窒素)の麻酔性や七元素を発見し、電気分解法を確立したデーヴィーは、当時トップクラスの著名科学者。そんな彼がなぜ、無学な製本技術者なんてのを雇ったか?

デーヴィー自身、若い頃は薬剤師として年季奉公をしていた。友人たちに研究所の職を世話してもらったことで科学者になった自分の過去を、ファラデーに重ねたのかもしれない。

その後、恵まれた環境で実験に没頭したファラデーはトントン拍子に大成功。いつしか嫉妬し始めたデーヴィー、彼の出世を邪魔しようともしたが、晩年は「私の最大の発見はファラデー」と発言。んー、オ・ト・ナだ。

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● もし学歴があれば

学校教育ですっかり数式に強くなった計算高い男ファラデー、電磁気学の理論を次々と公式化し、マクスウェル出番なし。禁欲主義な宗教を信じる貧しい鍛冶屋の娘でなく、大学在学中に知り合った上流階級の娘と結婚すると、特許を取得。発電機製造業やめっき産業からの収入を得て大もうけ。傾きかかった王立研究所の財政を立て直し、王立協会会長長の座もナイトの称号も与えられるがまま手中に収める。クリスマスの公開講座は思い切りド派手にし、聴講者全員にキャンドルつきの豪華なクリスマス・ケーキを振舞ったため、毎年大盛況となる。ただし、彼の講演内容「脂肪族鎖式飽和炭化水素CnH2n+2の科学」は難解な数式と計算だらけで素人にはほとんど理解されない。
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2005年09月06日

ウィンストン・チャーチル(1874-1965)…イギリス/政治家

<大逆転>

●受験失敗:チャーチルの場合

チャーチルはハロー校在学中に2度、士官学校の受験に失敗した。

そもそも彼が名門パブリック・スクール(全寮制の特権的私立中等学校)ハロー校に合格できたのからして、蔵相を務めた父ランドルフの息子を学校側が拒めなかったから、というのが定説だ。入試のラテン語では、「1問も解答できず、ただ答案用紙にインクをこぼしただけ」だったのだから。

入学後はラテン語を免除される劣等組に入れられたチャーチルだが、父に促され、陸軍志望者向けの特別クラスに入る。ここもハロー校の他の学生から「劣等生の天国」と呼ばれるクラスで、彼の成績は停滞したままだった。士官学校から2度も不合格の通知を受けたチャーチルはロンドンの予備校に送られ、ようやく陸軍師範学校騎兵科に合格する。

が、点数が低かったため、父の希望する歩兵科でなく、騎兵科にまわされた。騎兵科は成績不良の者、格下の軍人への道というだけでなく、学費も歩兵科よりずいぶん高くついた。

そんなわけで、チャーチルから騎兵科合格の知らせを受けた父は落胆し、怒った。今と同じような怠惰で無益な生活を止めなければ、「みすぼらしくて不幸で無益な生活に転落してしまうことと確信している」と息子をひどく叱責した。すでに梅毒にかかっていた父は、間もなく廃人のようになり、2年後、息子の活躍を予想できぬまま亡くなった。

当時は確かに彼だけでなく、まわりの誰もがチャーチルを単なるバカだと思っていた。

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●人生のポイント

予備校通いの直前、チャーチルは鬼ごっこをして橋から10mほど転落。2日間意識不明となり、破裂した腎臓を治療するため、2ヶ月を病床で過ごした。ロンドンの自宅で療養しつつ、自宅に食事に招かれた父の友人である政治家たちに顔をあわせ、下院を傍聴して議会闘争を目撃し、政治面の刺激を受けた。

この数ヵ月後、スイスを旅行したチャーチルは、湖で小さなボートから飛び降りた。強い風にあおられたボートは、必死に泳ぐ彼の手から離れた。死の危険を感じながらも、すんでのところで助かった彼は、後にこの体験を短編小説として発表した。

陸軍学校入校前の短い期間に、立て続けに死を意識する事件を起こしたことは、傍目にはただのアホな行動でも、チャーチルを絶体絶命の状況に屈せぬ男にした。成人し戦場に出てからも、彼は意図的に危険に身を晒し、勇敢な人物という名声を得ようと努め、そのいくつかは見事に成功した。

1899年、ボーア軍の捕虜となったチャーチルは、不可能に近い脱走を遂げた。彼の帰還は熱烈な歓迎で迎えられ、「捕虜収容所から脱出した英雄」という肩書きと、選挙費用となる著書印税と講演収入が生まれた。保守党下院議員にすんなり当選した彼は、25歳の若さですでに、他の候補者の応援演説をしてまわるほどの人気を得ていた。

その後も「大ピンチ→大逆転」は、失敗の多い彼の切り札となった。没落し政治を離れた後に首相となり、負け戦に米ソを巻き込んで勝利した。

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●もし最初から合格していたら

おもちゃの兵隊遊びが大好きだったチャーチル、陸軍師範学校を優秀な成績で卒業すると、偉大なる父がすっかり梅毒病みで廃人同様の尊敬できない姿になっているのを目の当たりにする。これを機に、父を通じてちょっぴり憧れていた政界への興味が失せ、貴族階級が政治家として大成する必須条件のオックスフォードもケンブリッジも出てない自分が政治の道を目指したところでたかが知れてる、せいぜい軍人として生きるのが関の山、と自らに言い聞かせる。間もなく己の文才に気づき従軍記者となる。本来話し好きの彼だが、「s」の発音が苦手なため、予定外のことを人前でしゃべるのがだんだん億劫になり、自宅に閉じこもって作家として大成。ノーベル文学賞はやっぱり受賞。
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2005年09月02日

ホー・チ・ミン(1890-1969)…ベトナム/ベトナム民主共和国初代国家主席、革命家

<貧しい大統領>

●貧乏出身:ホーの場合

ベトナム民族解放の最高指導者であり、ベトナム民主共和国初代大統領ホー・チ・ミンは貧しかった……生涯ずっと。

ホーの父は妾の子で、身分が低く肩身も狭かった。母の実家から持参金として与えられた竹小屋で、末っ子のホー(変名は多いがホーで統一)を含む3人の子は育った。

父が家族を置いて留学しているホーが10歳のとき、母は死ぬ。試験に次々と合格した父は、高い地位に就くこともできたが、フランス当局による官僚制度を疑い反抗したので、条件のよい職を失った。彼は南方に追放され、巡回教師や薬剤師で生計を立てつつ、子供たちと離れて放浪した。

父は子供たちにフランスの息がかかった正規の学問を学ばせようとしなかった。親もフランス当局も当てにできなかったホーは、サイゴンの技術者養成校で学んだ後、21歳でコック見習となり、2年間の船上生活を送る。

その後のホーは、庭師、調理師助手、クーリーの通訳、肖像写真の修正、絵描き、僧侶、煉瓦運びなど、各地でさまざまな職に就いて食いつないだ。父に似てる、にしても恐るべき器用さだ。

パリで彼に会った人の証言によれば、ホーは洗面器と机しかない部屋に住み、床の上に直接マットを敷き、本を枕にして眠った。米とソーセージと鰯だけを食べ、機関紙『ル・パリア(賤民)』などの印刷に必要な経費と、ちょうどその日暮らせるだけの金しか稼がなかったらしい。

こういう「めちゃくちゃ貧しいホーおじさん(Bac Ho)」ネタは尽きない。一見バカにされてるみたいだが、実は貧乏ネタが、彼の武器となった。

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●人生のポイント

ホーは国民に大きな犠牲を強いた。ベトナム戦争では、南北合わせて150万名以上の人命が失われた(米兵の犠牲者は6万名弱)。それでもホーは慕われ、憎まれなかった。

大統領となっても、ホーは質素を貫いた。シャツにカーキ色のズボン、白いゴム製のサンダルを身につけ、普段は敷地内の質素な木造の家に住み、公務や接見のときだけ通称「北ベトナム宮殿」(旧フランス総督府)を利用した。

実際にはホー以上に、ベトナムという国自体が貧しく、盗みか死のいずれかしか選べない状況の者も少なくなかった。人一倍我慢強く、時には実際以上に貧しげなホーを、貧しい国民たちは支配階級者や指導者というよりむしろ同胞と見なして、信頼した。

1966年、「独立と自由ほど尊いものはない」とアメリカとの徹底抗戦をアピールしたホーは、3年後に心臓発作で79歳の生涯を閉じた。遺書には「大げさな葬儀などで人民に時間とお金の無駄遣いをさせないで欲しい」と記されており、質素な軍服をまとった彼の遺体には彼の愛用したゴムサンダルが供えられた。敵国アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』は「彼に最も激しく敵対した者でさえ、この弱くやせ細ったホーおじさんには、崇拝と敬愛の情を禁じえなかった」と、数々の賞賛の言葉とともに彼の死を報じた。

その後、ホーの後継者たちは75年サイゴンを制圧。翌年南北統一のベトナム社会主義共和国の実現に成功。ホーの力は富を伴わずに大国アメリカを蹴散らした。

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●もし貧乏出身でなかったら

ユダヤ商人と親しくなり資産を拡大したホーは、金の動かし方を計算しつつ、戦費の捻出に努めつつ軍事訓練所を設立し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)たちにゲリラ戦法を教授する。が、食うや食わずの貧しいベトナム国民たちにとっては、フランス側、アメリカ側、器用さで富を築いた資産家のホー、いずれも命令ばかり下しているようにしか見えないので、自分への金払いがよければどこにでも従う。いつのまにか金で敵に買われて敵国のスパイだらけとなっていたベトコンたち、実践の場になると大脱走。フランスにもアメリカにも利用された挙句にホーは暗殺され、ベトナム領土は仏植民地及び米軍基地で埋まり、常に火花の絶えない危険地帯となる。
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posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 貧乏出身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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