2005年10月25日

ジョン・スチュアート・ミル(1806‐73)…イギリス/哲学者、経済学者

<英才教育とその功罪>

●学歴なし:ミルの場合

狼に育てられた少女がどうなるか気になるなら、『自由論』の著者ミルのこともちょっと気にしておきたい。功利主義者の父による徹底した英才教育によって成長した彼は、学校教育をまったく受けなかったのだから。

ベンサムやリカードを友に持つ父は、ミルに3歳からギリシア語を教え、8歳までに『ソクラテス追想録』やプラトンの『対話篇』なんてのを読ませ、ラテン語を学ばせた後、13歳のときに経済学の課程を終えさせて、リカードの『経済学及び課税の原理』を読ませた。こんな教育受けたガキに間違ってお年玉なんて渡したら、「こいつ俺のこと利用しようとしてんじゃないだろうな」などと勘ぐられそうだ。

父子とも大学教育をバカにしていたので、ミルは大学へ行く年になると父の働く東インド会社に勤めた。インド人もビックリしたかは分からないが、10代ですでに論客となった彼が教養の面で比類なく恵まれたことは確かだ。後に彼自身、自分は父からの訓育のおかげで、同年輩の人々より4分の1世紀早くスタートできた、としている。

ただしミルは「私の教育の主な欠陥は、子供たちが親からほうり出されて何とか自分でやってゆかされるとか、集団の中に放りこまれるとかいうことから得られるものを受けなかったことである」と記し、「日常の問題になると、私の散漫、不注意、だらしなさは、年中叱責に値した」という。彼みたいな教育受けなくてもそういう人はいっぱいいるんだけど……。

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● 人生のポイント

さて、早期教育が蔓延する今の時代、ミルと同じ程度にとはいわないまでも、何らかのジャンルで多かれ少なかれ「英才教育のようなものを受けた」覚えがあるという人は多いだろう。英才教育がミルのような人物を産むのだとすれば、第二、第三のミルが続々と生まれないのは、なぜか。

ミルが受けたのは、記憶第一の詰め込み式教育ではなかった。息子が不用意に「観念」だの「理論」だのといった言葉を使うと、それはどういうことかと追求し、天才少年の無知を暴露してヘドモドさせ、失敗を自覚させた。彼の父は、息子に自分自身の言葉で語ることを求め、理解力、思考力を鍛えたのである。

やがてミルは、絶対の真理だと思い込んでいたベンサム主義に疑問を抱き、重い欝状態になる。その後、まずベンサムが死に、そして父が死ぬと、ミルは猛然とベンサムを批判する。さらに後、今度は「批判しすぎた」と思い直して、いったんは遠ざけたベンサム功利主義の肩を持つ。

ミルが意見を変えるたびに、彼に賛成する者は「裏切られた」と感じた。が、一見、無節操で軽薄なミルの誠実さは「満足した豚よりも満足しない人間である方がよく、満足した愚者であるよりも満足しないソクラテスである方がよい」という彼の言葉に現れている。彼は常に疑問と不満を抱えつつ、体面より改善を追究した。先人の言葉をただ鵜呑みにしているばかりでは、世界も自分も変わらないのである。

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● もし学歴があれば

学校生活中、自分の知識が同級生たちと比べてかけ離れたものであることを知り、ミルは自分の秀才ぶりに開眼。ずば抜けたその知識に全校生徒が脱帽し、彼の説くベンサム主義が校内を席巻。「最大多数の最大幸福」をスローガンに、多数決で決定した1人が他の全員の宿題をやる、1人のパシリが他の全員のためにお昼のパンと飲み物を買ってくる、といったシステムが横行、イジメ問題に発展。落ちこんだミル、俗人との交際を絶って人妻との道ならぬ恋に生きる。と、周囲の誰もが彼を真似たため、大学生の間で不倫ブーム。家事にも恋にも忙しくなり始めた世の主婦に向け、「子売り主義論」を書き上げた後、高利貸しとなり今度は「高利主義論」を完成。
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2005年10月18日

アンネ・フランク(1929‐45)…ドイツ/ユダヤ系実業家の娘

<永遠に「幼い少女」>

●夭折:アンネの場合

ブログなどで日記を書いてて、ふと、「自分が死んだらこの日記どうなるんだろう?」と考える。で、「今は自分の日記なんて誰も読んでくれないけど、自分の死後『アンネの日記』のようにクローズアップされて、大フィーバーを巻き起こしちゃったりなんかして」なんて考えてしまう……そんな人がいっぱいいる以上、やはりアンネはただの女の子でなく「偉人」である。

アンネはドイツのフランクフルトに生まれ、5歳でアムステルダムに移住した。オランダをドイツが占領すると、アンネ一家はユダヤ人の強制移送を恐れて、1942年の夏から民家の屋根裏に隠れ住んだ。この時点でアンネの寿命はあと3年、である。

44年8月、一家は逮捕され収容所に送られ翌年2月、アンネと姉は発疹チフスにかかり、ブツブツだらけになった。まず、姉が衰弱して死に、アンネの気力はすっかりくじけた。姉の遺体が運ばれるのを見た彼女は、ベッドで「お父さんもお母さんも、もう死んでいるに違いないし、これで私は家へ帰る目的がなくなった」とつぶやき、3日後に息を引き取った。16歳だった。

実際は、父は生きていた。終戦後、隠れ家での生活を綴った日記により「何とかして有名になりたい」「死後も生き続けて人の役に立ちたい」という亡きアンネの願いを知った父は、この日記を刊行まで漕ぎ着けた。こういう父を持つ人は少ないだろうが、彼女と同じ志を持ちつつ日記を書いてる人なら、今の世にもゴロゴロいるだろう。

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●人生のポイント

アンネより勇敢にナチスと戦った人はもちろん、彼女よりひどい思いをした人は山のようにいた。だのに日記が遺されてたくらいでなぜ、彼女だけがマクドナルドとかコカコーラ並みの知名度を持つようになったのか? 「日記だけならワナビーアンネ」な人なら、ぜひ押さえておこう。

まず、日記が1944年8月1日で終わっているところが重要だ。記された不幸さがいくらひどいとはいえ、さらにひどい収容所のことは書かれず「これはちょっと子供には見せられない」というほどのグロテスクさはない。「ほどほど」に留まっているのだ。で、日記の後、確実にもっと不幸になってる事実が、読む者の想像力を刺激する。

弱さというのも、時にとてつもない武器となる。強靭な中年男性が同情を集めながら万人から愛されるのは難しい。第二次性徴では女の方がデカい体、という事実はこの際どうでもよく、大事なのは「少女=か弱い」というイメージだ。幼い少女というイメージは、最終的に全員が同情を抱かざるを得ないよう仕組まれたかのように申し分ない。

これに加え、アンネが幼くして死んだというのがミソだ。生きる少女は老婆になるが、死んだ少女は永遠に少女のままである。

所詮、人は皆死ぬ。地球だって最後には終わる。突き詰めればすべてが虚しい世界の中で、たいていの読者より短く救いのない人生。その断片が記された『アンネの日記』は、矛盾に満ちた人生を癒し、死後の夢を読者に与える。

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●もし長生きしていたら

若い頃に記した日記を戦後書き足したアンネがこれを出版社に持ち込むと「何、このおめでたい文体は?」と、前半部分の多くが削除されて発刊。ナチスVSユダヤネタの出版ラッシュに埋もれて注目を浴びない自著を片手に、戦争被害者としての体験を広める慈善活動家に。「えっ? またユダヤネタ? もう飽きたのに〜」と内心思いながらも口に出せない大衆を相手に講演を重ねるうち、相手に楽しんで話を聞いてもらわねばと手品とジャズと漫談の才能を身に付け、ユダヤネタを織り込んだコメディ映画を撮影。21世紀になってからキティというブログに記される『アンネの孫日記』が話題に。
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2005年10月11日

アンデルセン(1805‐75)…デンマーク/童話作家

<童話のメリット>

●家族の病:アンデルセンの場合

頭がおかしくなった本人は、自分が精神を病んでいることを気づかずにいられる。

が、頭のおかしくなった者と血を分けた家族は、その者の世話をせねばならない。そのうえ、自分が正常かそうでないかを疑いがちになり、仮に正常だという自信をもてたとしても、いつかおかしくなってしまうのではないかという不安を抱え続けることになる。

アンデルセンの祖父は、精神を病んでいた。彼は奇妙な人形や玩具を作っては、乞食のような格好でそれを持って回り、近所の子供たちから気味悪がられ、バカにされた。幼いアンデルセンは学校の上級生に「この子は、おじいさんと同じに、気が変なんだわ」といわれたことがきっかけで、友人たちから離れた。

祖母は「私は貴族の血を引いている」と語った。彼女にひどくかわいがられたアンデルセンは、この話を間に受け、自伝にもその通りに記した。が、彼女は病的な虚言癖の持ち主で、そんな事実はまったくなかった。

アンデルセンの父親は靴職人だったが、職人階級にしてはかなりの読書家で、教養人だった。息子にもたくさんの物語を読み聞かせた。が、ナポレオンを崇拝して軍隊に志願し、敗北後帰国すると、精神錯乱に陥り、2年ほどで死んでしまった。無教養で信心深い母は、息子が成人する頃アルコール中毒になり、数年後には慈善病院で生涯を終えた。

アンデルセンは、彼らと同じように自分は狂死するのではないかという其怖を絶えず感じ続けた。この環境なら、そう感じるのが普通だろう。

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●人生のポイント

アンデルセンは童話によってキチガイだらけの家族を消化するという、離れ技をやってのけた。

貧しく不遇な家族に生まれ、詩人として大成した自分を、アヒルの巣に生みおとされた美しい白鳥に例えたのが『みにくいアヒルの子』だ。家族の中でひとり幸せをつかんだ自分を「こんな家族に生まれたからといって不幸な運命を背負った人間ではないのだ」と、自己肯定しているかのようだ。

息子以上に貧しかった母親の悲劇的な人生も、彼は同情と美に転化した。童話に消化した。『マッチ売りの少女』は、貧しい少女が、美しい炎に浮かび上がった亡き祖母の腕に抱かれ、神に召され死んでゆくという、救いようのない結末だ。これは幼い頃に乞食をやらされ、橋の下で泣いていた母の実話をもとにしたものだ。

事実ほど救いようのないものはない。文盲の母は、結婚前に騙されて行商人の子を産んでいた。2度目の夫に死なれた後も、彼女は冷たい水の中で1日洗濯をして生計を立てた。リューマチの痛みと孤独、そして水の冷たさを紛らわせるため酒に溺れ、彼女は正常な意識を失っていった。

童話『あの女はろくでなし』は、貧しい洗濯女が上流階級の金持ちから、酒飲みのろくでなし、と罵られる話だ。この題材をアンデルセンは「母の友達」から、としている。が、自分の母を書いているようにしか見えない。

事実を認めたら精神の安定を保てないときは、こんなやり方もあり得る、かも。

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● もし健全な家族だったら

やたらと器用なアンデルセン、親の後を継ぐ靴屋の見習仕事のみならず、特技の切り絵や花束を作り、歌を歌っては友達を増やし、近所の人気者に。貧しいながらも幸せな一家を誇りにし、池を泳ぐアヒルの家族を見れば、自分の家族のようだとニコニコ満足。アヒルの尾の巻毛を花嫁の靴の中に入れておくと亭主関白になれるという伝説を信用し、巻き毛を大量に集めた後、健全な子孫が生まれるであろう自信を持って思いを寄せた相手にアプローチ。が、失恋し、その後は中途半端な創・性を発揮して『金魚姫』『ステテコ姿の王様』『憎いアヒルの子』などの童話を創作、二流作家として村のちょっとした有名人に。
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2005年10月04日

リヒャルト・ワーグナー(1813-83)…ドイツ/作曲家

<多才?>

●亡命:ワーグナーの場合

内容より音楽重視なオペラを否定し、独自の理論に基づく「楽劇」なるものを産んだワーグナー。彼は作曲家のくせに、ドレスデン革命で大奮闘した。

彼の活躍は、革命参加を促すビラの制作・配布、手榴弾製作工場での労働、王政主義者側の動向視察(といっても実際は教会の塔での見張り)etc…幸か不幸か、人を操る曲ベストテンとかやったら必ずランクインするであろう自分の曲を革命には利用しなかった。

彼の革命熱は、社会主義的な思想以上に、実生活の不満から生じていた。当時宮廷劇場の指揮者だった彼は、給与の増額を要求し、拒絶された。その頃、議会に宮廷劇場への補助金停止が提案されたのだ。

官憲や支配階級の芸術に対する無理解に腹を立てたワーグナーは、芸術を暇つぶしの娯楽としか考えない有産階級、芸術を鑑賞する時間的経済的余裕のない無産労働階級、いずれも問題視した。で、「現状を変え『人間社会の芸術的秩序』を完成させるには、革命!」と考える。人間社会の芸術的秩序……具体的にはよくわからないが、魅力的な響きだ。

が、革命は失敗に終わった。

共和党でも民主党でもないのに派手に動いた彼は、首謀グループの一員と見なされ、「国家反逆罪」の逮捕令状が出る。が、大金や偽の旅券を手配し、辛くも逃亡した彼、スイスで11年間の亡命生活に。

ちなみに彼と同時期の令状で逮捕された者は、ほぼ皆死刑。惜しい、ここで奴が死んでたら……ってユダヤ人も多いだろう。

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●人生のポイント

この亡命がワーグナーを西洋音楽至上、比類ない存在に押しやった。

亡命中に記した芸術論により打ち立てた「総合芸術」理論に基づき、彼は「楽劇」(彼自身はこの名を嫌がったが、一般的な定義は「ワーグナーとその後継者の作品」)を構想した。この「楽劇」は音楽という一要素を最優先させるのでなく、劇自体が究極の表現目的となるよう、音楽、文学、舞踊、絵画、建築などあらゆる芸術が統一、融合すべきだとした。

「楽劇」実現のため、作曲専業の世界に、彼は映画監督的手法を持ち込んだ。自作の台本を自ら執筆し、演技や衣装の指導、劇場建築すべてに指示を出し、「総合芸術」理論に基づいて『ニーベルングの指輪』が完成した。12時間を4晩で演じるこの大作の規模は未だに超えられていない。

随筆「音楽におけるユダヤ性」も、亡命中に発表されたものだ。ワーグナーが「自分が嫌いな人を誰でもユダヤ人とした」といわれるほど支離滅裂な反ユダヤ思想を語るこの文章も、彼の曲も、後にヒトラーが寵愛。ナチスが彼の曲を党歌代わりに扱う最大の理由となる。

なお、ワーグナーの父親がユダヤ人である可能性はわりと高く、彼のユダヤ人への反発はかなり個人的な事情による。彼は当時、ユダヤ系作曲家と敵対し、ユダヤ人の高利貸しから借金の取立てに苦しめられていた。おそらくはそんなバカバカしい理由が発端で、現在もイスラエルで彼の「楽劇」を上演するのはとっても難しい。

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●もし亡命していなければ

依頼もないのにビスマルクを讃え『皇帝行進曲』を作曲した際、身元が割れ、「社会主義者が宰相をナメた曲」と楽譜は焚書扱い、逮捕令状再発行。窮地に陥るワーグナー、ルードウィッヒ国王により救出され、インテリア凝りまくりの超贅沢な隠れ屋生活。謎に包まれた作曲家と国王との怪しい関係は風刺画にされ、やおい本の草分けに。その後も匿名で作曲&脚本執筆を続けるが、作者不明のド派手な舞台を観た者は、曲と台本を同じ人間が作ったと気づかぬまま「長すぎ」「金かけすぎ」「死を美化しすぎ」「古い神話を蒸し返した小難しいストーリーで曲が台無し」などと噂する。哲学界では「完璧!」「台本は見事、曲は不要」その他、評は分裂。
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posted by 73 at 23:59| Comment(7) | TrackBack(1) | 亡命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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