2005年11月29日

石川啄木(1886‐1912)…日本/歌人、詩人、評論家

<天才庶民>

●中退:啄木の場合

盛岡中学にいた頃の啄木は「青春まっただなか」という言葉がピッタリな情熱野郎で、決して泣きながらカニ遊びをするような人間ではなかった。

文学熱に浮かれる彼は、学校の勉強そっちのけで『太陽』や『明星』を読みふけり、岩手日報に歌、書評、評論を載せつつ、文通から始まった節子(後の妻)との恋愛や、教師へのストライキに奔走した。当然ながら学校の成績は、ひたすら下降線を描く。試験をカンニングで何度か切り抜けるが、ついに発覚し、5年生で退学を勧告されたようだ。

家族や友人には退学の理由を「学校が面白くないから」と語った。が、実際には放校同然で、学校にいても落第することは目に見えていた。5年1学期の成績は、8科目中4科目が成績不成立、それ以外も赤点スレスレとお粗末なもの。同級生たちは啄木を脱落者と見なし、「石川のようになるな」とささやきあっていた。

しかし、地方紙に度々文章を掲載したことが啄木の確固たる自信となった。「退学という試練は、文学の世界でいち早く自分を英雄に君臨しようとする神の配慮に違いない」と考えた彼、東京へ行けば何とかなると思い込む。

タイミングよく、2、3年ほど「投稿しては没」を繰り返していた『明星』に、初めて啄木の歌が掲載される。これに目をつけた与謝野鉄幹は、彼を東京へ呼び寄せた。

こうして17歳の啄木は悠然と退学願いを提出し、上京する。ちなみにこの頃、啄木の作品は、奇をてらったものや模倣がほとんど。勢いだけが取り得のトホホな若者だったのだ。

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● 人生のポイント

上京した啄木は、翻訳で金を調達しようと図書館通いをして英語を学んだ。が、訳本を出版社に持ち込めば「大学を出てから来い」でお流れ。移住を繰り返しては職をクビになり、書いた小説は5篇ともものにならず、ぱっとしないことばかり。

それでも啄木は、自分を特別な天才だと信じ続けた。たいした実績もないまま上流を気取って、人力車を乗り回し、バイオリンを弾き、賛美歌を歌い、歌会を開く。金もないのに借金を重ねまくってのこの態度は、当然軽蔑を集めた。この頃「働いても暮らしが楽にならない」なんてじっと手を見てたら「使わなきゃいいのに」と一笑されて終わったろう。

が、中学中退の経歴は、啄木にいつまでも上流の生活を許さなかった。結局、彼は新聞の校正係にしかなれなかったのだ。

夫との生活に耐え切れなくなった妻節子は、啄木が24歳の時、ついに家出する。ここで啄木は現実に目覚め、自らの天才を見限り、生活を人生の最重要事項と考えるようになった。

そして、無用のものだと突っぱねていた短歌に、一庶民としての悲哀を気取らず著し始める。こうして彼は『一握の砂』『悲しき玩具』を生み、本当の天才になった。

が、『一握の砂』初版は売り切れぬまま、明治最後の年に27歳で啄木は死んだ。この後、庶民層に大正センチメンタリズムが流行し、「庶民の心を歌った歌人」として注目を浴びる。彼が本当に庶民の心を持ったのは晩年の3年足らずだから、ずいぶん効率的である。

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●もし中退していなければ

大学に進学し教授へのストライキ騒動を起こすが、卒業後は翻訳で金を稼げることに味を占め、徐々に創作はそっちのけに。それでも中学時代に傾倒したロマンティシズムが棄てられず、分不相応な王朝風の暮らしをしては、金を借りまくり踏み倒し続け、あちこちに愛人を作りまくった挙句、妻節子とは離縁する。が、結核にかかるといきなり弱気になって復縁を迫る。ついに体が動かなくなると、古今東西の可憐な臨終場面を研究し、華麗な辞世の句を模倣する。最期は自分の墓の形がロマンティックに見えるかどうかを気にしながら、バイオリンの演奏をバックに色とりどりの花に埋もれて少女漫画チックに息を引き取り、「妙な人が死んだね」と噂される。
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2005年11月22日

ヘルマン・ヘッセ(1877‐1962)…ドイツ/詩人・小説家

<病は名作へ>

●精神病:ヘッセの場合

「頭痛がして、それを治すには誰かを殺さねばならない、そして自殺する。そしたらこの荒涼たる世の中から救われる」

『車輪の下』で知られるヘッセは、エリート神学校在学中、こんなことを友人に語っていたらしい。こんなだから当然ともいえるが、彼は同級生たちに気味悪がられていた。森を散歩していて枯草に火をつけ13歳で監視人に捕まった彼は、14才で学校を脱走した。

周囲からは精神病院への入院を促されたが、彼の母は症状の悪化を恐れ、入院を強く反対した。代わりに、ヘッセは霊感療法で名高い牧師にあずけられた。両親は息子の脱走を、悪魔が取りついたせいだと思い込んだのだ。

新しい環境でしばらくは落ち着きをみせたヘッセだが、再び頭痛と不眠に悩む。旅行先で出会った年上の女性に愛の告白を拒絶されると、自殺のために銃を購入。目的は遂げられなかったが、その理由を手紙に「自分に打ち勝った、それとも臆病だったのかもしれません」と記した。

そんなこんなで、彼は再び精神病院入りを要求される。が、またしても母はこれを拒絶し、ヘッセを別の牧師のもとに移す。牧師に「神やキリストに心を向けよ」と説かれた彼は「この神の中に妄想以外のものをみることができない」といい(そりゃそうだ)、やがてギナジウムを退学する。

その後、書店の見習い店員になるが、2日間勤めると脱走し、行方不明に。1歳では骨折してまで女中から逃げ、幼稚園もサボったという彼、スジガネ入りである。

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●人生のポイント

彼の2度目の発病は、第一次大戦中だ。彼が新聞コラムで「戦争熱にかられ、憎悪をあおることをやめよう」と反戦を訴えると、ドイツのメディアは彼を「売国奴」「裏切り者」とバッシングし、多くの友人がヘッセから離れた。

著作は出版を停止され、経済的にも苦んだヘッセだが、同時期にドイツ人の捕虜を保護するため、献身的に働いた。慰問のため『ドイツ捕虜文庫』を編集し、自宅を事務所にして仕事に没頭する。多忙のあまり私生活に手が回らなくなると、息子は発病、妻も精神病で入院。ヘッセ自身、抑鬱が激しくなり、ノイローゼに。

彼はユングの弟子ラングの治療を受け、ユングとも知り合い、精神分析の研究を始める。無意識の世界やアニマ(無意識内に存在するとされる、ユングが仮定した女性像の元型)を学ぶと、『デミアン』『アヤメ』を書き上げる。

偽名で発表した『デミアン』は、主人公が年上の転校生に導かれ、既成の価値観に抑圧された自己を解放し、無意識に埋もれた「本来の自己」を発見するという話で、童話『アヤメ』には、亡き母や精神病の妻を思わせるアニマ像らしきものが示されている。いずれも精神分析の影響大で、作品を書くこと自体が治療になってそう。

若い頃の神学校や脱走体験は『車輪の下』に描かれている。読んでると、実はヘッセ自身よりまわりのほうが変だったんじゃないかとか、彼がおかしいとすれば自分もおかしいとか思えてくるが、実際そういうことかも。

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●もし精神病にならなければ

学校かったるいなと思いつつも卒業するまできっちり通ったり、全然信じられないと思いつつも牧師から神の言葉を聞きながらうんうんうなずいてみせたり、面倒くさいし自分にこの仕事は向いていないし上司のことも嫌いだと思いつつも親の紹介してくれた勤め先で毎日働いたり、平和に暮らしていければそれに越したことはないなあと思いつつも戦争が始まれば愛国心に浮かれた周りの人々に話を合わせるため戦意を語ったり、ナチスから発禁本のお達しが出るとそれを本棚から取り除いたり、ドイツがボロボロに敗戦すると今度はあちらこちらの平和運動やってる団体に加入を迫られて次々と入会したり……って、なんだかものすごくどこにでもいる人のような。
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2005年11月15日

レーニン(1870-1924)…ロシア/革命家

<何をなすべきか>

●兄弟早死に:レーニンの場合

おとなしい兄がこっそり人殺しを考えているのに気づいたら、どんな気がするだろう? そのことが長く頭から離れなくなるんじゃないだろうか。

6人のうち5人が革命家になったレーニン兄弟のうち、ペテルブルク大学理学部に在学していた長男アレクサンドルは別だった。成績優秀だった彼は、繊細な感受性をもち、内向的で、学究肌の(オタクの人をホメるときに使われがちな形容ばかりだ)青年だった。

レーニンが17歳のとき、21歳の彼は、ナロードニキ思想に傾倒していた。この思想は派閥も多く、考え方には色々あるが、基本的には「一挙に社会主義に進め!」というもの。

ナロードニキ思想家たちは、すでに皇帝アレクサンドル2世の暗殺に成功していたが、政治的自由を勝ち取るという目的はまったく果たせなかった。トップが消されたところで支える者の思想が変わらなければ、首の挿げ替わるだけなのである。要するに、ナロードニキ思想というのはあんまりうまくいってなかった。

が、レーニンの兄はすでに失敗したのと同じ方法を試みようとした。彼は1887年、皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加し、逮捕された。2世が殺されてから6年後である。

皇帝と同じ名をもつ責任感の強い兄は、裁判で同志の罪をすべて自分で引き受けようとし、結局死刑になる。これは、後に世界で初めての社会主義国家を設立するレーニンが、初めて帝政ロシアの国家権力を知る、またとない機会となった。

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●人生のポイント

品行方正でツルゲーネフに読みふけっていたレーニンは、性格の合わない長男とあまり打ち解けなかった。兄アレクサンドルは暗殺計画のことだけでなく、自分がマルクスの著書を読んでることも弟レーニンに黙っていた。

何でも話せる仲だったなら、兄の死をすぐ納得し、思考停止状態でひたすら兄に傾倒したかもしれない。が、レーニンは冷静に兄の死を考え続けた。

大学で学生運動に加わったレーニンは、逮捕され退学処分となる。謹慎期間中、亡き兄の愛読書であった『何をなすべきか』を熟読した。質素な生活をし、拷問にも耐えられるよう精神と肉体を鍛える青年を讃えたこの小説を、レーニンは「この本は私をすっかり深く掘り返した」と語った。

翌年大学に戻ったレーニンは、マルクス主義的サークルに参加し、革命家の道を志す。やがて兄の失敗を糧に、『人民の友とは何か』などの論文でナロードニキ思想の批判を始める(後にナロードニキは1890年代のマルクス主義者が「古い!」と拒絶した過去の革命思想全体を指すようになる)。

1902年、レーニンは自らの革命思想を『何をなすべきか』と題して発表する。労働者階級が歴史的使命を果たすためには、自己認識、自己反省、理論が大事であり、社会の全人民への抑圧を自分の問題として闘う必要があることを主張した本である。手段として不適当な暗殺を試み、人生にも革命にも失敗した亡き兄が読んでいたらどんなによかったろう、というような内容だ。

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●もし兄が生きていたら

ツルゲーネフに傾倒したレーニン、尊敬する小説家と無口な兄が通ったペテルブルグ大学に入学し、観念論哲学を身につける。小説『余計者の友とは何か』により、何に対しても批判的で冷笑的な態度をとる口先だけの理想主義者には友達が少ないことを描いて頭角を表し、農民による革命への迷いを表現した短編集『貧農に、訴える?』『猟人日記をなすべきか?』で文壇的地位を確立。これらの作品が政府に目をつけられ地下に潜伏すると、観念の世代と資本主義を批判、行動の世代と共産主義がロシアの改革には必要であることを小説『父と子と国家と革命』や自伝的作品『初恋の最高の段階としてのその前夜』により示し、日和見主義者を戸惑わせる。
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2005年11月08日

田中正造(1841-1913)…日本/足尾銅山鉱毒反対運動の指導者

<天は助けず>

●逮捕・有罪:田中の場合

直訴までして足尾銅山鉱毒事件と闘ったことで知られる田中正造は、逮捕と入獄を度々経験している。28歳で入獄11か月、31歳 で2年9 か月、44歳で3か月、62歳で41日間。

最初の入獄は役人や領主の不正を指摘したのが原因だ。田中が明治維新を迎えたのはこの収監中だが、江戸が明治になっても、政府に楯突く人間には、不当な逮捕が繰り返された。2度目の逮捕は圧政に反対したためで、その次 は上役暗殺を疑われて投獄(後に冤罪確定) 。最後の投獄は川俣事件(足 尾銅山被害者の大挙上京請願運動が大弾圧を受けた事件)の裁判中、誠意のない検事に抗議を示すアクビが官吏侮辱罪となったためだ。

3度目の獄中で、田中はスマイルズの世界的ベストセラー『西国立志編』( 『自助論』)を読む。「天は自ら助くるものを助く」で知られるこの書は「勤勉、忍耐、節約などの美徳で人生を切り拓くことができる」という自己啓発書。要するに「マジメに頑張ってりゃ成果がありますよ」というもの。

スマイルズの思想に影響された田中は、彼の書にあるとおり、普遍的な人間道徳に基盤をおいた。そして彼は、法のための法でなく、人類の良心を憲法だと考え、そこに政治規範を求めた。

ただし、『西国立志編』の評価は下がっている。このテの本がありがちになったうえ、「マジメに頑張っても成果があるとは限らない」ことが判明してきたからだろう。残念ながら、田中はその好例となった。

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●人生のポイント

大アクビで捕らえられた最後の入獄時、田中は差し入れの聖書を読んだ。「聖書を読むよりはまず聖書を実践せよ」と日記に記し、一時は改宗をも考えるほどキリスト教への信仰心を強めた。獄中というのは感化されやすい空間なのかもしれないし、人道を身につけるには世間より適切な場所なのかもしれない。

ただし、田中は単なる「神頼み」としてのみでなく、信仰心が味方になると考えてもいたようだ。鉱毒調査を行った内村鑑三らをはじめとして、支援者にはキリシタンが多く、田中が彼らと交わる機会は頻繁だった。毎号のように谷中村問題を取り上げるキリスト教系の雑誌もあった。

が、足尾銅山鉱毒反対運動は、無残な失敗に終わった。

議員を辞し、命賭けで行った田中の直訴に世論は沸いた。支援活動も活発化したが、間もなく世間の関心は日露戦争に持っていかれた。住居の強制破壊までやって立ち退きを促す政府に対し、田中は残留民とともに谷中村に小屋を建て、汚染地帯に住み込むが、それまでの味方は次々と田中を裏切った。

絶命した田中の枕元に遺されたのは、綴じ合わせられた帝国憲法と聖書だった。憲法と聖書だなんて水と油みたいだけど、晩年の彼にとっては、いずれも戦いの武器であり、道徳的精神のよりどころだった。死の半年前、彼は残留民たちに「神は谷中にあり」と手紙を書き送ったが、田中の死後、残留民は毒浸しの故郷を逃れる他、何ひとつ手がなかった。神は毒死した。

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●もし逮捕されなかったら

幸徳秋水や『毎日新聞』主筆に直訴を提案された田中、「エーッ、だって江戸時代そのやり方やった人って家族ごと処刑されたんでしょ? 名主生まれの俺が警察沙汰になんかなっちゃったらみっともなーい」と思いつつ、おそるおそる直訴煽動ビラを作成。狙い通りとまでは行かなくとも足尾銅山反対運動は激化し、鉱毒被害者たちは大勢逮捕され強行に家宅捜索される。と、自分たちは「野心家の田中正造が手を汚さないで名声を得るための道具にされた」の流言に引きずられ、被害者たちの間で内ゲバの嵐、鉱毒反対の運動団体は雲散霧消。尊敬し続けた大隈重信に「鉱業は停止すべきでない」と諭され、田中も「彼がいうんならそうかもな」なんて考え始める。
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2005年11月01日

ジャン・ジャック・ルソー(1712-78)…スイス/思想家

<最初の不幸>

●母早死に:ルソーの場合

「私の誕生は私の最初の不幸であった」と自伝『告白』に記すとおり、ルソー誕生の9日目、彼の母は出産が原因で亡くなった。

ルソー曰く、死んだ母は「父よりも豊かであり、知識も高くて、美しかった」そうだが、彼の記述するあまりに理想的な母親像はマユツバなとこもある。これは、一見すると夢見がちな魅力に溢れているが、現実に当てはめると矛盾しがちな彼の思想のようである。

時計職人の父は、愛する妻の命と引き換えに生まれたルソーに「お母さんを帰しておくれ、この私を慰めておくれ。この心にあいた穴をうずめておくれ。お前が私の子というだけなら、こんなにかわいがるものか」なんていってたらしい。ルソーも大変だ。

伴侶を失ったショックはジワジワ父を蝕む。生活は徐々にすさんでゆき、ルソー10歳のとき、決闘沙汰がもとで、父は息子たちを残し出奔。間もなく兄も行方不明になり、一家は崩壊。孤児となったルソー、牧師に預けられた後、13歳で徒弟奉公に出される。

彼は親方の横暴と束縛から、嘘をつき、サボり、盗みを犯すようになる。ここで生じた「自然でない人為的な徒弟関係が堕落を招く」という考えは、「悪の起源は不平等。不平等から富が生まれた」とする後の『人間不平等起源論』につながる。ものは考えようである。

その後、ルソーは職を転々とし、3年半に渡る放浪生活を送る。今でいうフリーター、浮浪者だ。晩年にひきこもってもいる彼自体、社会問題の塊みたいだ。

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●人生のポイント

さて、19歳から7年間、ルソーは年金生活者ヴァラン夫人のもとに暮らす。夫人はルソーの教師となり、母親代わりになり、2年後には愛人ともなる。結局、ヒモ暮らしである。傍から見れば不自然なこの関係、母亡きルソーには自然なものらしい。

この時期以外、働き始めてからパリに移るまで、ルソーは貧しく、社会の最下層の地位にあった。30を過ぎて彼に生まれた5人の子も、貧困を理由に即、孤児院行きにした。教育書を書いてるくせにという気はするが、彼自身孤児だったんだし、妙な父に育てられるよりマシかも。

当時、フランスの学問や芸術は、貴族と富裕な上流階級に支えられていた。文字も知らぬ貧しい民衆がそれらに接する機会は、ひどく限られていた。母や愛人の影響で教養を持ち合わせたルソーも、サロンなどの閉鎖的な社交界からは下層民として冷遇され、つまみ出された。

そんなルソーが注目されたのは、懸賞論文『学問芸術論』だ。現状への不満をもとに、彼は学問や芸術自体を批判した。学問にも芸術にも通じた彼の言行不一致はその後も続き、論理に一貫性を欠くこの論文が発表されると反論ばかりが生じた。

が、論戦を重ねるうち、ルソーの思想は整理され、批判の対象が定まった。5年後、『人間不平等起源論』に進歩主義及び不平等への批判が明示された。

これらの批判は、たいていの革命の発起点である。そして、ルソーの理想はいつも夢のままだから、彼の批判は今日も通用する。

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● もし母が死ななかったら

母直伝の教養を身につけまくったルソー、牧師の孫を肩書きにサロン出入りをスタートし、「自分の属するサロンに自己をすっかり預け、個人性を放棄すれば、自己の内部分裂がなくなり幸福になる」と考えて『サロン契約論』を発表。中世以来、西洋初の同一人が作詞作曲したオペラ『村の占い師』が大成功を収めると、選民気取りで年金享受。その後ハイキングやピクニックなどを提唱し、カーテンをあしらった装飾過多なテント、バーベキューの最中に服につくニオイを消す最高級の香水、睡眠中撃たれてもかすり傷ひとつ負わない寝袋などのアウトドアグッズを販売して大もうけ。これを元手に、女中に生ませた5人の子を育てるが、どの子も本を読まない。
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