2005年12月20日

ドストエフスキー(1821‐81)…ロシア/小説家

<幸福とはなにか>

●逮捕・有罪:ドストエフスキーの場合

27歳で死刑台に向かうドストエフスキーは、処女作『貧しき人々』の他には、大した作品もないまま世を終えるかに見えた。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』といった名作は、まだ存在しなかった。

彼の主な罪状は、ロシア正教会を批判した手紙を集会で朗読したこと。ともに逮捕されたペトラシェフスキー会の仲間たちも同じ死刑判決を受けたが、誰もそれほどたいそうなことはしていなかった。一時的な興奮から「隆起するしかない!」と叫んだりはしても、基本的には空論を楽しむ、たわいのない集団だった。

だが、当時ロシアで活動していた社会主義サークルはこれだけで、「革命の機運を一掃する」と豪語するニコライ一世のもと、彼らが秘密警察の目に留まるのは当然のなりゆきだった。

白装束を着せられたドストエフスキーは、同時に逮捕された仲間たちが処刑用の柱に縛りつけられていくのを目前に、ブルブルと震えた。死刑執行人の銃は肩に乗せられ、銃口が仲間たちを狙い、「照準!」と号令……。

が、銃は発砲されなかった。この時、皇帝からの使者が「刑の執行を猶予せよ」という礼状を持って現れ、ドストエフスキーは「死刑」から「4年間の強制労働の後、兵役勤務」に減刑された。

実はこの進行すべて、皇帝の書いたシナリオ通りだった。白装束も使者登場のタイミングも減刑も、あらかじめ決まっていたのである。これにより一人が発狂したが、計画する側の悪ノリはちょっと楽しそうな気も。

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● 人生のポイント

その後、新約聖書以外の書物を読むことは許されない獄中、ドストエフスキーは神に目覚めた。後に「囚人が神なしで生きることは不可能だ」と作中人物に言わせた通りである。同時にロシアの民衆に触れ、苦難とともに生きる術を学んだ。

4年間の強制労働を終えると、彼は「あれ(与えられた刑)は僕の十字架であり、僕はそれを受けて当然だと思っています」「以前の僕なら思いもよらなかった欲望、希望、といったものが今では胸にこみ上げてきます」と、やけに肯定的な人生観を持つ前向きな人間になっていた。

その後、逮捕以来の使えるネタを活用し「死刑直前で減刑」は『白痴』に、シベリアでの強制労働は『死の家の記録』に描いて名声を確立する。晩年には、自らをロシア民衆の救世主的な役回りに仕立て上げる彼だが、この傾向も獄中体験から芽生えたようだ。

なお、数十年後のドストエフスキーが「あんな幸福だった日はこれまでになかったよ」と語ったのは、死刑を言い渡され減刑となった、あの日である。その時彼は「体がしびれるような喜び」を覚えたという。確かに最悪の状況を切り抜けられること以上の幸せって、そんなにはないかも。

そういえば、手首を切るのは「気持ちがいい」というリストカット常習者がいる。苦痛がなければ快楽というのは認識できないものなのかもしれない。同じように、不幸がなければ幸福なんてものは、あるのかどうかすらわからないものなのだろう。

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● もし有罪にならなければ

『貧しき人々』で彼をほめたたえた評者たちは、それ以降のいまいちぱっとしない彼の作品群と、うぬぼれが強く、嫉妬深く、喧嘩好きで、邪知深く、卑屈で、利己的で、高慢で、信頼ができず、思いやりがなく、偏屈で狭量かつ博打好きなこの男の性格を知るうち、「どうも自分の目に狂いがあったのでは」と考え直す。医者の息子で地主だということが知れわたると、ドストエフスキーを敬愛していた民衆たちからも「こいつなんだかんだいって単なる偽善者じゃねえか」と見なされ、総スカンをくらうようになる。結局、父が農民に殺された体験と持病のてんかん発作をネタにした小説を得意とする、ロシアだけでちょっと有名な一文士として生涯を終える。
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2005年12月13日

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749‐1832)…ドイツ/詩人、小説家、美術研究家、政治家、自然科学者

<発禁されたりしてみたり>

●発禁:ゲーテの場合

ゲーテとドイツ人の関係は、富士山と日本人の関係と同じだといわれる。「富士山なんて今さら知ったこっちゃない」という日本人も山ほどいるだろってのはおいといて、「ドイツ人のシンボル」たるゲーテの名が初めて世界に知れ渡ったのは、小説『若きウェルテルの悩み(以下、ウェルテル)』による。

『ウェルテル』を一言でいうなら、婚約中の女を好きになった男が自殺した、という三面記事並みのストーリー。これが1774年の秋に出版されると、ブルーのフロックコート、黄褐色の皮のベスト、膝丈の黄色いズボンの主人公に倣ったウェルテルファッション(変!)が信じ難いことに大流行し、傍らに『ウェルテル』を置いて自殺を図る青年男女が続出した。

ドイツではこの作品をめぐって激しい議論が巻き起こった。「この本は自殺の弁明書だ」と非難が生じ、「人間は誰もが自分自身の生の主人である」という主張にキリスト教会は頭を痛めた。作品の擁護者たちは弾劾され、国家の敵とまで呼ばれた。

ライプツィヒでは大学神学部がこの本を弾劾し、書籍販売業者に対し罰金刑を課すと脅して販売を禁じた。コペンハーゲン大学神学部もデンマーク語訳の印刷を禁止した。これらに反駁が起こり、擁護論が書かれ、模倣作品や翻訳が出版された。

『ウェルテル』の元ネタは人妻に失恋して自殺した友人と、ゲーテ自らの傷心体験。とはいえ、「こんな陳腐な話でここまで騒動を呼べる」ということのほうがビックリ、という気がしなくもない。

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● 人生のポイント

『ウェルテル』が人々に与えた影響には、ゲーテ自身も驚いた。「それは私が受けた影響の正反対だった……(それを書き終えた)私はあたかも総告解のあとのように、再び明るく自由な気分になり、新たな人生に踏み出す姿勢が整ったと感じたのだ」。要するに、当人は書くことでスッキリしたのだ。

ただし、「文学作品は測り難ければ測り難いほど、知性で理解できなければ理解できないほど、それだけすぐれた作品になる」といったゲーテ、わかりやすい『ウェルテル』を、「すぐれた作品」だと思っていたかはわからない。

わずか4週間で一気に書き上げられた『ウェルテル』に対し、構想段階を含めれば60年以上が費やされたという『ファウスト』。晩年にこの第二部を書き上げたゲーテは、それを封印し、死後に発表されるように手はずを整えた。『ウェルテル』と異なり、こちらは彼自ら、自分の目の黒いうちは発売禁止、にしたのだ。

さて、ゲーテが死に『ファウスト』第二部が発表された。伝説の魔術師ファウストをモデルとした作品は多数あるが、ハッピーエンドっぽく見える結末はゲーテのもののみ。難解さも手伝って、当然あちこちで議論が生ずる。

が、もちろん、亡き人に疑問を尋ねることはできない。

多くの人が「分からない文学作品は優れている」と考えがちである。その後、『ファウスト』は「ゲーテの最高傑作」という評価を得る……ゲーテの思惑通りのような気がする。

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● もし発禁にならなければ

著作権の概念がなかったため無断出版・無断翻訳も多く、印税がなくても生活費に困らぬゲーテにとって『ウェルテル』が発禁になろうがなるまいが、どっちでもよかった。が、自らの恋愛感情を押し通すより、自分は引き下がって愛する人の幸せな結婚生活を望んだ『ウェルテル』は、まさにキリスト教的精神の鑑、とする解釈が現れると、恋に無縁な牧師や修道女の間で『ウェルテル』が読み継がれ、教会内は恋に恋する聖職者で溢れる。晩年は『ファウスト』を早く発表したため、著者に不明点への問い合わせが殺到。老体に鞭打って受け答えをしようとするゲーテ、客人との対話に疲れ「もっと静寂を」と言い残し、とっとと息を引き取る。
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2005年12月06日

トーマス・マン(1875‐1955)…ドイツ/作家

<弱点を認める>

●亡命:マンの場合

「ワーグナーの芸術は非常に魅力的なものだが、そこには異常性や弱点もあり、批判されるべき点がある。今日的に(つまり、ナチスのように)彼の芸術を民族主義と意味づけて賞揚することは許されない」

『トニオ・クレエゲル』『魔の山』などで知られるノーベル賞作家マンがこんなふうに述べたのは、ワーグナー没後50年を記念して行った講演(『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』)の中である。

翌日、マンはオランダへ単なる講演旅行のつもりで旅立ち、その後2度と祖国の地を踏むことはなかった。ドイツのメディアが「マンはヒトラーの愛するワーグナーをけなした」とみなし、抗議文を掲載するなどして大バッシングを始めたのだ。当時のドイツはナチスに脅かされ、こんなアホなことになってて、マンが帰郷するには危険すぎたのである。

同年、ナチスは公の場で彼の著作を燃やした。同時に焚書されたのはアインシュタイン、カフカ、ヘレン・ケラー、フロイトなどの書。今からするとここで焼かれるほうが名誉のような。

だが、マンの追放処分は見送られていた。ドイツをテーマに度々取り上げる世界的に有名なノーベル賞作家は、国家の宣伝になると見なされたのである。

マンのほうもドイツを離れたまま、ナチス批判を明言せず、あいまいな立場をとっていた。彼は「自分の著作が禁書扱いにならずにドイツ国内で読まれれば、ファシズムへの反発が国民に広がってゆくはず」と考えていたのだ。その後がなきゃ、傍目には単なる無難路線にしか見えないけど。

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●人生のポイント

1936年、マンはヒトラー政権への反対を宣言した。ナチスに敵対する亡命作家だと見なされていない自分に気づき、態度を改めたのだ。これを受けてナチス側は、マンの財産を没収し、市民権及び国籍を剥奪した。

が、亡命後もマンはドイツ文化を愛し、ドイツ国民を見棄てなかった。

第二次大戦中、彼は英BBC放送を通じ、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。敗戦直後もドイツへ向けてファシズムからの解放を祝い、マンの「自国」であるドイツの国民は「ナチス呪縛からの断固たる決別をはっきり示すべきだ」と語りかけた。

さらに、大戦中を含む7年を費やしてマンは『ファウスト博士』を書きあげた。この書により、非理性的・盲目的な情熱から悪魔に魂を売り渡していったドイツの運命を描き出したのである。

この作品は「ドイツによる自己批判」として、マンの政治姿勢とともに世界的評価を得た。祖国を愛し、その芸術を誇り、自分がドイツ文学者だと一瞬たりとも忘れなかった彼は、ドイツ精神の欠点に最後まで向き合ったのである。

ドイツはマンのメッセージを汲み取った。強制収容所などの忌まわしい過去の残骸をはっきり展示して直視し、自国の過去の過ちを認めながらそれらを反省し続けるという姿勢は今も貫かれている。「愛国」を盾に、過去に犯した過ちから目をそらすより、まずはマンから本当に正しい「国を愛する」姿勢を学んでみてもいいだろう。

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●もし亡命していなければ

対戦中はとにかく妥当な路線を探って、なんとかナチスからの追放を免れる。が、戦後はワーグナーを讃えた愛国的作家として世界中から白眼視され、ナチスに加担したことで同じく白眼視を集めるハイデガーと仲良くなって人生相談。『ファウスト博士』により奇跡的挽回を果たしドイツ以外の各国から讃えられるが、「自分ばっかり安全なところにいたくせに偉そうなことをいう調子のいい奴」と、ドイツ国民から猛反発を浴び、裏切り者の烙印を押される。やがてアメリカで赤狩りが始まり、意見を求められると、過去の無難路線を反省してマッカーシーを批判するが、一部の人々から「今さらわかったようなこと言いやがって」と屁理屈的な批判を浴びる。
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posted by 73 at 23:59| Comment(1) | TrackBack(1) | 亡命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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