2010年07月10日

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817−62)…アメリカ/作家、思想家

<まずはひとりで>

●生涯独身:ソローの場合

ヘンリー・D・ソローが22歳の時に恋したのは、エレン・シューアルという牧師の娘だ。当時のエレンはソロー家を訪れ、田園の散歩、ボートでの遠出、本の朗読と議論などを通じ、ソロー兄弟と長い時間を過ごした。兄のジョンもエレンを愛しており、ジョンがプロポーズに失敗した後、ヘンリーも手紙で求婚するが、断られてしまった。エレンの父親は、ソロー兄弟を理想主義的で進歩的過ぎると考えていたので、それが父親っ子のエレンの決断に影響したのかもしれない。
この頃、ソローは「思いもかけず 囚われた」「愛し方がもっと弱かったなら 愛せたかもしれない」といった言葉のある「共感(シンパシー)」という詩を書いた。表向きにはエレンの弟に捧げられたものだとされるこの詩は、実のところ、エレンへの愛を表現したものだといわれる。
「共感」の詩から12年後、ソローは日誌に「自分はひょっとして、ある感覚が欠落しているのかもしれない」「若い女性と半時間話しても、彼女が整った顔立ちをしているというだけの理由で、喜びに出会うということはない。若い女性たちとの社交(ソサイエティ)は、私がこれまで試みた最も詮無いことであった」などと記した。30歳の時ソローは、45歳のソフィア・フォードという女性からの求婚を断っている。年齢差は気になるところだが、もてない男、というのではなかったようだ。
死の床でソローは、エレンのことを「ずっと愛していた」と語った。エレンはソローの死後まもなく、牧師と結婚し幸せに暮らしたが、ソローの早く亡くなった兄も姉も妹も、生涯独身を貫いている。

-------------------------------------------------------------------

●人生のポイント

40歳になってから「自然は僕の花嫁」「僕はヒイラギガシと恋に落ちた」などと書き綴っていたソローは、自分の最大の技能を「ほとんど欲しないということ」だとしている。『森の生活』に「貞潔は人間の開花だ。そして天才、英雄的行為、聖性などといわれるものは、すべてその後に続くさまざまな果実に過ぎない」とあるように、ソローは性的な放逸をだらしなく不潔で人を不浄にするもの、節制は活力をもたらし人を鼓舞するものと考えていた。
そして、豊かに生きる最も確かな道は、必要なものを少なくすることだと、ソローは早くから意識していた。「人は、かまわないでおける物事の数に応じて豊かなのである」「一人の人間による以外には何も生み出すことはできない。助けを望むものはすべてを望む」「まず一人でしなければならない。そうすれば成功を私たちは共に喜ぶことができるだろう」と記す彼が、配偶者や子どもにふりまわされることのない生活を選んだのは、自然なことだった。
実際、ソローが『森の生活』の着想を得た森の中での2年間の生活も、人頭税の納付を拒否して逮捕・投獄されたのも、たった一人でのことだった。「社会の再形成〔改革〕(リフォーム)という問題では、私たちは団体をほとんど信じていない。この社会)は最初その上に形成されたのではなかった」と述べたが、ソローは誰かの協力を頼る前に、ひとりひとりが力を発揮することの大切さを固く信じていたのである。

-------------------------------------------------------------------


●もし結婚していたら

隠遁生活中のウォールデン湖畔にソローの後の妻がお弁当を持参したびたび参上、ケープ・コッド岬で繰り返される頻繁なアウトドアデート。恋が、愛が、女性がいかに素晴らしいかに感銘を受けて著されたのが『ウォールデン・森のピクニック』。おいしいサンドイッチのつくりかたから、自然の中で男女が交わる方法、木の実の選び方やレシピなど、使える情報が体験に裏打ちされて事細かに記され、実用書として広く読まれる。
また、人頭税を払わず投獄されたソローに対する妻の対応は『相手を気持ちよくさせる刑務所での面会の仕方』『投獄された家族を励ます手紙の書き方』といったハウツー本にまとめられ、ガンディー、キング牧師の家族も啓蒙、日本でも極道の妻のバイブルに。

Henry David Thoreau.JPG


posted by 73 at 17:10| Comment(4) | TrackBack(0) | 生涯独身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レイチェル・カーソン(1907-64)…アメリカ/生物学者

<死後があるから>

●闘病・カーソンの場合


「『沈黙の春』の裏にはなかなかの物語があります。ほんとになんという病気のカタログでしょう! 迷信深い人だったら、不吉な力が働いて、なんらかの方法で本を完成させないようにしていると簡単に信じてしまうでしょうね」

カーソンが友人にこんな手紙を書いたのは、『沈黙の春』の出版される1962年のことだ。このときは虹彩炎で目がほとんど見えず、一日に二、三時間ほど仕事をするのがやっとだった。

『沈黙の春』執筆に取りかかった1958年から、カーソンは病気に苦しんでばかりいた。慢性の副鼻腔炎を長く患ったかと思えば、1960年初頭に「十二指腸潰瘍」だと友人への手紙に記している。次にはウイルス性の肺炎、そしてまたしても副鼻腔炎に苦しむ。

『沈黙の春』で癌について二章を割き記されているが、この部分を書き終えた頃は、担当医に手術を勧められている。このときカーソンは、すでに癌に罹患していたのだ。左側のリンパ腺と胸のかなりの部分の筋肉が切り取られたカーソンは、自分の寿命がもう長くはないと知った。

癌治療の放射線療法に慣れ始めた頃、軽い膀胱炎で症状が始まり、ブドウ状球菌の感染が見つかる。両足は静脈炎になり、炎症が起きて、歩くことも立つこともできないほど激しい痛みに襲われた。入院、病院への通院などで、『沈黙の春』はそのまま沈黙で終わってしまうのではないかと思われるほどに停滞ばかりを繰り返した。

-------------------------------------------------------------------

● 人生のポイント

「先のことを少しでも考えるときには、体がばらばらに砕けてしまいそうになるの!」時にはこんな弱音を吐いたカーソンだが、病の中でも前向きな決意と自信を保とうと試み続けた。「このような経験をして、ただ一つよかったと思えることは、仕事から長いあいだ離れざるを得なかったことによって、いつも捜し求めつつ手にすることができなかった、より広い展望が得られたことではないかと思っています。今はすべてのことを単純に、おそらく、より簡潔に、あまり詳細に立ち入らないで書く方法を探しています」と、病の床から手紙に記している。

闘病中、「もし私の時間が限られているのなら、何よりも私が望むことは作品を完成させることだ」と、目標ををはっきり定めた。目が見えなくなった時期は、自分の書いた言葉を耳で聞いて原稿を確認した。ここで韻律を整え、簡潔明瞭を求めて書き直し、文章は詩的な美しさを増した。

カーソン54歳のとき「沈黙の春」が発売されると、文章中で告発した薬品の利権に関係する化学産業界や農務省から激烈な批判を浴びたが、嵐のような批判にさらされ続ける期間は56歳で息を引き取るまでの三年で済んだ。「私が、私の知らない多くの人びとの心の中にさえ、そして美しく愛すべき物事との連想を通じて、私は生き続けるだろうと考えるのはうれしいことです」と、最後まで気丈に構え続けたカーソンは、死ごときで自分の書いたことの影響が消えるわけではないとわかっていた。

-------------------------------------------------------------------

● もし患わなければ

細部ばかりがやたらと強調され、専門用語だらけの小難しい言い回しがそのまま使われた『沈黙の春』は一部のインテリだけにしか読まれず、一般大衆の多くにはカーソンの意図が伝わらない。化学企業はパンフレット配布、新聞、ラジオ、テレビを利用し、農薬のイメージを守り、回復するため大量の資金を投入。こうしたあの手この手が時とともに世論を侵食し、多くの人に「『沈黙の春』はトンデモ本」「レイチェル・カーソンは老いて呆けた神秘主義者」というイメージが定着。世話好きのカーソンは、自分が病まなくとも、親戚の介護や育児でいつも手一杯だったが、バッシングへの反論に疲れ果て、人間嫌いの偏屈老人となり隠遁。誰からも忘れられた頃、孤独な死を迎える。
Rachel Louise Carson.JPG
posted by 73 at 16:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 闘病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。