2005年06月01日

●不幸にどう対処する?

自分は不幸だ、と感じたらどうするか? 

もちろん「不幸の原因となる問題を解決する。」というのは正しい。だが、たいていの場合、不幸というのは解決が難しいから不幸なのである。ひとまずは、こんなふうになりがちだ。

・自殺する。
・運を信じる。
・自分を責める。
・神仏にすがりつく。
・誰かの同情を求める。
・自分の不幸ぶりに浸る。
・自分以外の何かを責める。
・不幸ではないフリをしてみる。
・同じ不幸から抜け出した人間に倣う。
・同じ不幸に陥りそうな人に警告を促す。
・自分より幸福な人間を羨んで嫉妬に狂う。
・自分を不幸にした人間にこっそり復讐を誓う。
・やり場のない気持ちを抱えながら鬱々と日々を送る。
・同じ不幸から抜け出した人間をひがみ、その足を引っ張る。
・これ以上の不幸を恐れてやりたいことや欲しいものをあきらめる。
・目の前の不幸からとりあえず気持ちをまぎらわせるため、何かに没頭する。
・より不幸な人を眺め、自分の不幸がそれほどではないことに胸をなでおろす。
・自分と同じような不幸を抱えた人がズルズルと陥ちてゆくのを眺め恐怖に震える。
・自分はこんな目に遭ってるんだからこのくらいやって当然だと考え、一般的には許されない言動をする。

……とはいえ、時と場合で不幸にどう対処すべきかは異なる。不幸な目に遭うたびに、いちいちその方法を発明するより、すでに不幸を生きた人に学ぶのが早い。

このサイトでは、不幸に遭遇した偉人を取り上げる。すでに偉人、というレッテルが貼られている彼ら彼女らを分析し、強引ながらも不幸のレッテルを貼ってみる。偉人たちの対処法が正解というわけでは決してないが、不幸はときにその業績に劣らず、生きてゆくうえでの参考になるはずである。
-------------------------------------------------------------------

●なぜ偉人か

では、なぜ一般人でなく、わざわざ偉人を取り上げるのか?

理由のひとつは、こういう人が「勝者」、こういう人が「敗者」……といった、単純すぎる分類法のバカバカしさを証明してみたいからである。こうした手法は、せいぜい社会分析やギャグのネタに使うためのものであり、人を個人として考える場合には、むしろ邪魔になりがちである。ここでは世間で勝者の典型とみなされがちな偉人と、敗者の典型と見なされがちな不幸を抱えた人間が、ごく当たり前に同じであり得ることを示せればと思う。

また、真に不幸を知るためには、単に不幸な部分だけを知るのでは足りない。不幸によって人間がどう変わり(あるいはどう変わらず)、どんな生涯を送ることになるのかという全体像を知らねば、不幸というものの性質を知ったことにはならない。偉人であれば資料が多く、単なる不幸な体験のみならず、彼ら彼女らの生きた環境、業績、生涯がどんなものであったかを語りやすい。読者が興味をもった人物をさらに詳しく調べるのにも、非常に適している。

そもそも、作り話かどうかもわからぬ無名の誰かを取り上げて、「こんな人がいてこんな不幸があった」という話は、信用しにくい。とはいえ偉人にだって、ゆがんだエピソードが語り継がれていることもある。それでも、その人物が一般人である場合よりは、多数の研究者たちの検証を重ねられたデータであるぶん、比較的信頼がおけるのではないかと考えている。

もちろん、偉人と呼ばれる人たちは、一般人とはかけ離れているから偉人なのである。彼ら彼女らの話が、そのまま私やあなたのような、今の一般人に役に立つことばかりではないかもしれない。

だが、すべての偉人は生まれた時から偉人だったわけではない。そもそも彼らは偉人である前に人間である。その人間が「不幸とどう遭遇したか」というところから、まずは眺めてみたい。

-------------------------------------------------------------------

●死人の理由

扱う偉人は、故人に限った。どんな不幸も死ねば終わるということを念頭においていたいからである。人生を途中までしか終えていない人物について記すと、未来がどこまでも続いているような気がして、いつか人は死ぬということを見落としがちになる。

生きている人間の不幸について知りたければ、その不幸を体験することも、体験者に直接尋ねることもできる。インターネットを使いこなせる今の時代、そういうこともそんなに難しくはないだろう。親しい間柄であれば、生存中の人間の不幸のみならず、考えやたどった道筋を、詳細に語り合うことができるかもしれない。

ただし、たいして親しくもない人にプライベートな不幸の話をしたりさせたりするのは、そんなに簡単なことではない。フロイトだのユングだのを持ち出して語りたくない人に過去を無理に語らせることや、聞きたくもない相手に不幸話を聞くことを強いるのも難しく、問題が生じやすい。

このため、現在進行中の不幸を理解するための情報は、本人の話したくない部分はわからぬまま、偏った側面ばかりが強調されがちだ。こうなると不幸への理解は中途半端に終わり、場合によっては偏見を助長する結果になりかねない。不幸以上のなにかを持ち合わせていない人に対し、不幸のレッテル貼りをするリスクも大きい。

死人はその生涯が完結している。これに対し、生きている人間は必ず変化するし、当然その不幸も変化する。これから変わりゆくものに対して、結論めいたことを書くのも憚られる。これも、命ある人を取り上げない理由である。

-------------------------------------------------------------------

●不幸を知る必要性

このサイトでは便宜上、世間一般から不幸、と見なされがちな項目を挙げている。とはいえ不幸というのは、必ずしも絶対的なものではない。そしてもちろん、これは偉人に限った話ではない。

例えば体験者にとって「死にたいくらいの不幸」でも、傍目には「それのどこが不幸?」というような、不幸と呼ぶに値しない場合もあるだろう。逆に、一般的には大変な不幸だとされているが、本人にとってはどうということはない……どころか「その状態のほうが幸福に感じられる」というケースすらある。

なんて例をいくつも眺めてると、一般的に言われてる不幸だの幸福だのってのは、自分にとってどの程度のもんなのかってのが、クリアーにわかってくる。そうすると、仮に不幸が不幸のままだったとしても、その不幸に対処するよりまずこっちの不幸、というふうに、よりマシな状況や選択肢が見えやすくなるだろう。不幸から抜け出せること自体を幸福の一種だと考えるなら、不幸を学べば幸福な状態が得やすくなるはずである。

不幸について鈍感だと、知らぬ間に自分が誰かに押し付けている不幸を気づけなくなる。幸福は誰もが追求するものだが、ある幸福が誰かの不幸を土台にしなければ成り立たないものだとしたら、その幸福は疑われるべきだ。不平等を前提とした幸福を享受する者が恨まれたり復讐を企てられたりするのは自然なことであり、そんな幸福はいつか否定される。

不幸は突然訪れる。それに対処する方法を知っておかねば、最悪の状況から逃れるのは難しい。できることなら各自、不幸によりうまく対処し、他者を不幸にしない幸福を見つけられたら、と思う。不幸を記す最大の目的はそれだ。

で、今もあちらこちらで罪のない誰かが残酷な不幸にボロボロにされまくってることを、少なくとも時々くらいは、思い出せるようにしておきたい。


この記事へのコメント
素晴らしいページで驚きました。時たまコメントを書き込ませてください。
 見られなくてもよろしいのですが一応、ブログのアドレスを書いておきます。
http://plaza.rakuten.co.jp/zidai/diary/201001310000/#comment

 なお、偉人道のページを紹介しておきます。それにしても見識が広いですねえ。肩書きという意味だけでなく、偉い方なのでしょうねえ。
Posted by higashi at 2010年02月07日 22:18
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。