2005年08月12日

アンリ・ファーブル(1823-1915)…フランス/昆虫研究家、博物学者

<欲しいときに、ない>

●貧乏出身:ファーブルの場合

54歳で『昆虫記』1巻を書き上げるまで、ファーブルの人生は金運に見放されっぱなしだった。

年若い両親の生活が苦しかったため、3歳のファーブルは山奥にある祖父の家に預けられた。7歳で学校に上がるため両親のもとに戻るが、やがて家族はその日の食べ物にも困るようになる。家計の足しにとアヒルを飼い、ファーブルはその番をしたが、収入は安定しない。なんとかせねばと両親がカフェ経営に乗り出したのはファーブル10歳の時。

が、経営はうまくいかない。転々と引っ越してはカフェを再開するが、結局破産する。家族は分散し、仕方なく家を出た14歳のファーブルは、道路建設工事の土木作業員などの仕事で日々の飢えをしのいだ。今の日本だとまだ中学生……。

その後、給費生として師範学校を終えた彼は、7年間小学教師を務めた。26歳から退職までは中学教師として働くが、教員適格免状もなしに独学叩き上げで物理、数学、自然科学の学士号と理学博士号を取得して成り上がった彼は、職場で反感を持たれ、孤立していた。しかも、年棒は退職まで21年間ずっと同じだった。

金がなければ大学教授になれないと知ったファーブルは、ひと財産稼ごうと、教職の傍ら8年間をアカネ色素抽出の研究に費やす。が、安価な化学原料のアニリン色素がドイツで開発され、ファーブルの研究は金にはならないことが確定した。

仮にここで金持ちになってたら、『昆虫記』が存在したかは微妙である。

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●人生のポイント

幼いファーブルが住んだ祖父の家には、隣近所がなく同年輩の友達がいなかった。代わりに牝牛、羊、豚、鶏、犬などの動物がおり、これらを遊び仲間にした。アヒルの番を務めたときには、餌となる池の生物などに興味を広げ、玩具の代わりに虫、魚、キノコ、小鳥と戯れた。

小学教師時代のファーブルは、目標の大学教授になるまでひたすら勉強に打ち込むつもりだった。が、コルシカ島に中学教師として赴任すると、結局生物観察を優先させてしまう。島には彼の気を惹くさまざまな生物が溢れていたのだ。博物学者とも知り合い、文通を始めた。机上で得られぬこれらの体験は、後に記す『昆虫記』に生かされる。

大学教授への道を諦めた後、ファーブルは夜間学校で植物の受精の話をした。これが周囲から「不道徳」「破廉恥」と大反発を食らった。この件をきっかけに彼は教職を辞し、収入を文筆に頼ることにした。

こうして生まれたのが平易な文体の『昆虫記』シリーズである。類書が出回るまではよく売れ、中学教師時代の10倍もの収入を得る年もあった。

晩年のファーブルはノーベル文学賞に推薦され(結局受賞せず)、猫も杓子も著書を争って読むほどの名士となり、「餓死に瀕した天才」などと実際以上に貧しく言いふらされた。すでに貧乏人でなくなった彼は、洪水のように寄せられる寄付をひとつひとつ返送し、匿名の寄付は貧しい人々に与えた。一見律儀だが、内心「ちっきしょう今さら」ってとこかも。

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●もし貧乏出身でなかったら

両親が経営する流行のカフェを手伝う青年ファーブル、砂糖にたかるアリやゴキブリを退治しようとせず、その観察に熱中してばかり。あきれた親に店から離れろと言い渡され、コツコツ自習し、順調に大学教授となる。早い時期にアカネ染料の実用化に成功して羽振りがよくなった彼、フランスのファッション界を支える染料学者として社交界にデビュー。リニューアルしたカフェ・ファーブルはスノッブなフランス人の溜まり場になる。やがて彼は動物観察より人間観察に興味を持つようになり、昆虫採取よりマドモアゼル採取、フンコロガシよりも土地転がしに精を出す。が、ドイツで科学染料が開発され、店内を行き来する虫が噂になると、カフェの人気はガタ落ちに。それでも不動産収入で暮らしは安泰。
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「あなたの不幸がいかに大きくても、最大の不幸は絶望に屈することでしょう」

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■プロフィール

幼い頃から自然に親しみ、師範学校を出た後、小中学校でで教師をしつつ博物学に集中し始めるが、その頃は「たまに突然乱暴になり、怒り狂って恐ろしい怒鳴り声を撒き散らす」先生だったらしい。教職を退いた後に自然科学の啓蒙書を記す。その後『昆虫記』10巻(1879‐1910)を完成させるが、第1巻を書き上げたのは54歳のときで、広く世の中に認められるようになったのは80台の後半からである。仕事に邪魔が入るのを極度に嫌っていたため、居留守を使うことが多かったらしい。彼の業績、人柄いずれもダーウィンから賞賛を寄せられたが、ファーブルのほうは生涯ダーウィン理論の反対者でありつづけた。故郷フランスではさほど彼の知名度は高くない。

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■ 参考文献
マルティン・アウアー/渡辺広佐訳『ファーブルの庭』(日本放送出版協会、2000)
稲永和豊『知的巨人たちの晩年』(講談社、1997)
G.V.ルグロ/平野威馬雄訳『ファーブルの生涯』ちくま文庫(筑摩書房、1988)
イヴ・ドランジュ/ベカエール直美訳『ファーブル伝』著(平凡社、1992)


posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 貧乏出身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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