2005年08月26日

ローザ・ルクセンブルク(1870-1919)…ポーランド→ドイツ/革命家、マルクス主義理論家

<殴られ撃たれ棄てられて>

●暗殺・殺害:ローザの場合

ポーランドとドイツで活躍した共産主義革命家ローザ・ルクセンブルクは、1919年1月15日、同士とともに殺された。

その日の夜9時、隠れ屋にいたローザたちは、民族主義の反革命グループに拘束され、ホテルに連行される。同士のカール・リープクネヒトが先に殺されると、ローザは屋外に連れ出され、銃尾で2度殴られ頭蓋骨を打ち砕かれた後、瀕死状態で車に乗せられた。車内では再び殴られ、脳髄を撃ち抜かれた。

彼女の死体はそのまま、リヒテンシュタイン橋に運ばれ、運河に投げ棄てられた。

司法当局はブルジョアジーと結託し、はじめは反革命軍のこの犯罪をもみ消そうとした。が、5月に彼女の遺体は発見されると、事件をマスコミに報じられ、隠し通せなくなる。

とはいえ、法廷は犯罪者の味方だった。殺害に加わった貴族はみな無罪となり、それ以外の者も最大で懲役2年の罪にしかならなかった。ローザに最後の一撃を放った中尉は、判決後に偽のパスポートでオランダに逃れ、恩赦に。彼女の「ブルジョア的合法性は支配階級の暴力を正当化する」という考えを裏付けるような幕切れである。

さらに、彼女の同士や支持者たちも大半が収監され、射殺された。遺稿の多くも失われたが、これがなけりゃ、もうちょい彼女、知名度高かったのでは。

反革命軍の動向は、ヒトラー台頭の呼び水となった。ナチズムが勝利した1933年、「帝国主義断固反対」を叫んだローザ虐殺を組織した者は高位に就き、事件をもみ消そうとした検事はナチス人民法廷の長官だった。

-------------------------------------------------------------------

●人生のポイント

わかっているだけでも5度投獄されたローザ。虐殺の2ヶ月前も、獄中で暮らしていた。

反戦活動をしていたローザは、第1次世界大戦が勃発すると有罪判決を受け、3年半収監された。檻の中から彼女は文書を送り続けて仲間を励まし、スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)を結成。『社会主義の危機』を匿名ユニウスで出版し、党の戦争協力を糾弾したのも、服役中だ。……彼女にとっちゃ、獄中のほうが安全だったのかも。

1918年の出獄後、ローザは同士カールとドイツ共産党を設立。年末の党大会で生涯最後の演説を行い、「革命の勝利へ確実な方法を準備せよ」と警告した。

その後、いつ捕まり殺されてもおかしくない状態にありながら、彼女は無防備だった。戦闘地域の真っ只中でも群衆にまぎれて激しく議論しあった。『ローテ・ファーネ(赤旗)』編集局のある建物が機関銃で掃射されると、彼女は戸口にいた政府軍の部隊を覗き込み、敵対者たちを直接説得した。

ローザと間違えられ、逮捕されて殺されかかった婦人は、彼女にベルリンを離れるよう勧めた。が、ローザはきっぱりと拒絶し、「労働者たちを意気消沈させないためにも、自分はベルリンに留まらねばならない」と言い張った。

彼女は目的のために自分を犠牲にすることを辞さなかった。きっと、死ぬ覚悟はできていたのだろう。歴史に名を残す革命家にとっちゃ土壇場に「死にたくない」なんてのは禁句で、自分の生活や命より大事なものがあるなんてのは当たり前なのである。

---------------------------------------------------------------------

●もし殺されなかったら

一党独裁に反対したローザのジワジワした戦略でヒトラーの台頭が防がれ、第二次大戦は起こらず、世界の歴史は翻った……といいたいトコだが、偽装結婚でドイツ市民となったものの、彼女はポーランド出身のユダヤ人。周囲のアドバイスを無視して頑なにベルリンに留まるが、協力者たちに匿われつつ1940年まで生き延びるのが精一杯。アウシュビッツが開所すると年老いたローザは真っ先に捕らえられ、もっとも悲惨な形で母国の地を踏む。大学入学時には自然科学科に在籍した自分の運命を、同じポーランド出身で3歳年上のマリー・キュリーの華々しい活躍ぶりとこっそり比べつつ、結局ガス室で虐殺されてオシマイ、という可能性のほうが高そう。
luksemburg.jpg

「世界はどれほど恐ろしいことがあっても美しいのです」
-------------------------------------------------------------------

■ プロフィール

革命家,マルクス主義理論家。非合法の反戦革命運動を展開し、ドイツ共産党を創立するなど、社会主義革命を目ざして活躍し、「赤いローザ」の名で知られる。ユダヤ人の木材業者の娘で、中学時代から社会主義運動に参加。大学では自然科学、哲学、社会科学をんだ。ポーランド王国社会民主党を結成。その後ドイツ社会民主党に入党し、ドイツ社会主義運動に指導的役割を果たす。幾度も投獄され〈わかっているだけで五度〉、獄中生活は合計するとほぼ四年に及ぶ。獄中からの手紙がのちに『ローザ・ルクセンブルクの手紙』出版され,日本でも感動をよんだ。大衆ストライキの主張,一党独裁に反対したことでも有名。『資本蓄積論』『社会民主党の危機』など。

-------------------------------------------------------------------

■参考文献

パウル・フレーリヒ/伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク新版その思想と生涯』(御茶の水書房、1991)


posted by 73 at 13:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 暗殺・殺害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
60年安保、70年全共闘時代、日本の女性過激派にはローザ・ルクセンブルグを信奉する者が多かった。
Posted by ,根保孝栄・石塚邦男 at 2014年10月02日 20:01
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。