2005年09月16日

オノレ・ド・バルザック(1799-1850)…フランス/小説家

<『喜劇人間』>

●破産:バルザックの場合

フランス最大の文豪バルザックは、30歳を迎えるまでに3度の破産を体験した。

26歳で彼が出版業を手がけたのは、「金さえ貯まれば好きなときに好きなことが書ける」と思ってのことだった。それまでにバルザックが匿名で書き記したものは、仲間と合作した通俗長編小説や実用書の類がほとんどで、文学的な価値のある代物ではなかった。持ち金のなかった彼は当時の愛人、ベルニー夫人から資金提供を受けて、ラ・フォンティーヌ、モリエールの全集を発行した。

が、思うように買い手がつかない。翌年には出版業を諦め、性懲りもなく印刷業を営み始める。この時点で負債はすでに7万2千フランに達していた。

次の年の9月。印刷事業はいつまで経っても軌道に乗らなかった。バルザックは、「印刷に加えて活字の鋳造を行えば、事態が一挙に打開するだけでなく、多大な収益があげられるはず」と考え、活字製作所を立ち上げた。

しかし、新事業はうまくいかなかったばかりか、すでに火の車となっていた印刷業のほうまで壊滅的な打撃をもたらした。半年後には印刷所、さらにその2ヵ月後には活字製作所も手放さねばならなかった。

こうして1828年、29歳のバルザックは、10万フランの債務者となっていた。

とはいえバルザックは多忙な中、着実な収益を上げられる執筆業のほうも一応続けていた。ただし、この頃の彼がどんなにいいかげんなものを書き綴っていたかという事実は、28歳の時に発行された『借金を支払い債権者を満足させる法』のタイトルからも推察できよう。

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●人生のポイント

20歳の頃、バルザックは年額1500フランの切り詰めた生活をしていた。その当時よりはるかに自分が貧しくなってしまったという現実を切り抜けるため、彼は創作活動に精力的に取り組んだ。

結論から言うと、その後もバルザックの負債は増え続けた。個人雑誌や新聞を発行しては失敗を繰り返し、購入した株は急落。議会やアカデミー会員に立候補すれば大敗。土地を買い家を建てれば崩れ、あるいは差し押さえられ、安値で他人のものと化す。製材業や銀の採掘にも手を出しかかったこともあるが、自由な時間と健康を損ねるだけに終わった。

要するに、彼が成功した仕事は、文筆のほかに何ひとつなかった。

死ぬまで彼を研究し続けた伝記作家シュテファン・ツヴァイクによると「バルザックは窮地に陥らない限り素晴らしい作品を書けない男」だった。確かに、破産前の彼の作品に、みるべきものはない。「幻滅」「あら皮」「ルイ・ランベール」「セザール・ビロトー」などの最大傑作は、失望と落胆の個人的体験から生まれた。フランス文学に『ナニワ金融道』と同じ主題を持ち込んだのも、彼が最初なのである。

ところで、浪費癖激しく、見栄っ張りで派手好き、マナーも趣味も容姿も悪い醜男として知られるバルザックだが、憎めない無邪気な性格と文才及び不屈の精神はたくさんの女性をとりこにした。彼の危機を救ったのは、いつも女性だった。

死の5ヶ月前、彼はロシアの大富豪ハンスカ夫人と結婚。底抜けに金持ちな妻を得て、彼の借金は最期にチャラになった。

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●もし事業家として才能があったら

出版業や株の仲買、不動産業その他諸々によりフランス一の金持ちとなり、資金がなければ諦めていたパイナップル園経営、財宝発掘もやり抜き、政財界を中心に影響力を与えまくる。フランス人は皆バルザックに倣い、泥水かと思うような濃いコーヒーをすすり、修道服を着て真夜中から明け方にかけて仕事をし、食事中は誰もが音を立ててナイフを舐めるようになる。絵画にも建築にも服飾にも彼の嗜好が蔓延し、「文学以外すべてフランス人の趣味は悲惨なもの」となる。「家庭の幸福には苦もなく身を任せてしまうでしょう」といったバルザック、晩年間近に幸せファミリーを築き上げると、突然いともたやすく引退。ここでフランス人は目を覚ます。
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2005年06月24日

アンリー・デュナン(1828-1910)…スイス/赤十字創立者

<赤字が生んだ赤十字>

●破産:デュナンの場合

デュナンのような人が経営する会社で働いてはいけない。彼の資質はまったく事業向きではなかったのである。

裕福な家庭に生まれたデュナンは、アルジェリアに製粉会社を建てようと、勤めていた銀行を辞め、30歳で会社を設立する。が、共同経営者も現地民もデュナンの信頼を裏切り、まじめに仕事をしなかった。水利の便が悪く、水不足もたたって借金は増える。

これではいけないと思ったデュナン、盲目的に傾倒していたナポレオン皇帝に、製粉会社の水利の改善を直訴しようと考え、イタリア統一戦争中の北イタリアに赴く。直訴で会社が何とかなるなら、みんなそうする気がするけど……。

ここでソルフェリーノ戦の惨状を目のあたりにし、「こんなむごい状態をとてもほおってはおけない」と、1ヶ月にわたって救護にとどまる。どうやら自分の会社の惨状は平気でほおっておけるようである。結局、皇帝への直訴にも失敗する。

その後、デュナンは隠遁し、戦場での中立的な救護機関設置の必要性を訴えるため『ソルフェリーノの思い出』を書き上げる。やはり、会社経営なんてどうでもいいのだろうか。本の反響から翌年には、国際赤十字が誕生する。

皇帝との謁見もかない、激励を受けるが、事業は成就しなかった。会社の決定的財政危機でパリの相場に手を出したデュナンは破産宣告を受け、赤十字国際委員会に辞表を提出する。

このぶんだと、最初の直訴が成功していたところで、会社はつぶれていただろう。

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● 人生のポイント

水利を直訴で改善できると考える人も珍しいが、直訴を目的にした旅路で戦地の救護活動を1ヶ月もやってしまう人も珍しい。自分の会社が危機にあるのに1年隠遁して本を書く人、というのもいなくはないだろうが珍しい。この珍しい行動の連続が、国際赤十字などという珍しいものを生んだわけである。

デュナンは破産し辞職してからも、赤十字への助力を惜しまなかった。が、経済的に落ちぶれたうえに病身となり、講演の最中に失神を繰り返すようになる。

富裕な軍楽隊関係の音楽家の未亡人であるカストナー夫人と出会い、彼女からの援助を受けつつなんとかやってゆくのだが、この交際は後に、デュナンへの中傷を招く。ヒモみたいなことしてる男が博愛を説くなんて……といった、いつの世にもありがちなやっかみだろう。そうでなくても、度々失神する講演者の話に説得力は感じにくい。デュナンの発言の影響力は、徐々に薄れていった。

奴隷問題などを取り上げた1874年頃には、デュナンの提案は黙殺された。肉体的にもボロボロになった彼に、直訴だの辞表だのをやってた頃の元気はなかった。

夫人亡き後の彼は、福祉施設で静かに暮らした。1901年の第1回ノーベル平和賞受賞がなければ、彼は最期まで生活保護を受けつつ、ひっそり一生を終えたことだろう。

自分の利益より人助けを優先させると、事業どころか日常生活すら人並みにやっていくのは難しい。まあ、ここまでやる人はめったにいないだろうが。

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●もし事業家として才能があったら

製粉会社からの帰り道、くずかごから食べ物を拾う浮浪者に遭遇。この光景に心を痛めたデュナン、製粉した小麦粉で大量のパンを作り、貧しい人たちに分け与える。やがてスイス及びその周辺の福祉施設で「パンのおじさん」としてデュナンはスター扱いされ、奉仕の精神を代弁する「デュナン」ブランドのパンは世界的に販売網を拡大。所得税対策のため、デュナンの肖像入りヘリコプターを使って戦場の兵士たち、らくだを連れた砂漠の旅人たち、食糧難に喘ぐ難民たちの上から、デュナン印のパンをばら撒く。と、未開の地を中心に世界各所で「神の使者デュナン」伝説が発祥。日本でも20世紀終盤に「『アンパンマン』のモデルはデュナン」説が広がる。
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「負傷して武器を持たない兵士は、もはや軍人ではない」
■プロフィール・参考文献
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