2005年09月02日

ホー・チ・ミン(1890-1969)…ベトナム/ベトナム民主共和国初代国家主席、革命家

<貧しい大統領>

●貧乏出身:ホーの場合

ベトナム民族解放の最高指導者であり、ベトナム民主共和国初代大統領ホー・チ・ミンは貧しかった……生涯ずっと。

ホーの父は妾の子で、身分が低く肩身も狭かった。母の実家から持参金として与えられた竹小屋で、末っ子のホー(変名は多いがホーで統一)を含む3人の子は育った。

父が家族を置いて留学しているホーが10歳のとき、母は死ぬ。試験に次々と合格した父は、高い地位に就くこともできたが、フランス当局による官僚制度を疑い反抗したので、条件のよい職を失った。彼は南方に追放され、巡回教師や薬剤師で生計を立てつつ、子供たちと離れて放浪した。

父は子供たちにフランスの息がかかった正規の学問を学ばせようとしなかった。親もフランス当局も当てにできなかったホーは、サイゴンの技術者養成校で学んだ後、21歳でコック見習となり、2年間の船上生活を送る。

その後のホーは、庭師、調理師助手、クーリーの通訳、肖像写真の修正、絵描き、僧侶、煉瓦運びなど、各地でさまざまな職に就いて食いつないだ。父に似てる、にしても恐るべき器用さだ。

パリで彼に会った人の証言によれば、ホーは洗面器と机しかない部屋に住み、床の上に直接マットを敷き、本を枕にして眠った。米とソーセージと鰯だけを食べ、機関紙『ル・パリア(賤民)』などの印刷に必要な経費と、ちょうどその日暮らせるだけの金しか稼がなかったらしい。

こういう「めちゃくちゃ貧しいホーおじさん(Bac Ho)」ネタは尽きない。一見バカにされてるみたいだが、実は貧乏ネタが、彼の武器となった。

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●人生のポイント

ホーは国民に大きな犠牲を強いた。ベトナム戦争では、南北合わせて150万名以上の人命が失われた(米兵の犠牲者は6万名弱)。それでもホーは慕われ、憎まれなかった。

大統領となっても、ホーは質素を貫いた。シャツにカーキ色のズボン、白いゴム製のサンダルを身につけ、普段は敷地内の質素な木造の家に住み、公務や接見のときだけ通称「北ベトナム宮殿」(旧フランス総督府)を利用した。

実際にはホー以上に、ベトナムという国自体が貧しく、盗みか死のいずれかしか選べない状況の者も少なくなかった。人一倍我慢強く、時には実際以上に貧しげなホーを、貧しい国民たちは支配階級者や指導者というよりむしろ同胞と見なして、信頼した。

1966年、「独立と自由ほど尊いものはない」とアメリカとの徹底抗戦をアピールしたホーは、3年後に心臓発作で79歳の生涯を閉じた。遺書には「大げさな葬儀などで人民に時間とお金の無駄遣いをさせないで欲しい」と記されており、質素な軍服をまとった彼の遺体には彼の愛用したゴムサンダルが供えられた。敵国アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』は「彼に最も激しく敵対した者でさえ、この弱くやせ細ったホーおじさんには、崇拝と敬愛の情を禁じえなかった」と、数々の賞賛の言葉とともに彼の死を報じた。

その後、ホーの後継者たちは75年サイゴンを制圧。翌年南北統一のベトナム社会主義共和国の実現に成功。ホーの力は富を伴わずに大国アメリカを蹴散らした。

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●もし貧乏出身でなかったら

ユダヤ商人と親しくなり資産を拡大したホーは、金の動かし方を計算しつつ、戦費の捻出に努めつつ軍事訓練所を設立し、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)たちにゲリラ戦法を教授する。が、食うや食わずの貧しいベトナム国民たちにとっては、フランス側、アメリカ側、器用さで富を築いた資産家のホー、いずれも命令ばかり下しているようにしか見えないので、自分への金払いがよければどこにでも従う。いつのまにか金で敵に買われて敵国のスパイだらけとなっていたベトコンたち、実践の場になると大脱走。フランスにもアメリカにも利用された挙句にホーは暗殺され、ベトナム領土は仏植民地及び米軍基地で埋まり、常に火花の絶えない危険地帯となる。
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2005年08月12日

アンリ・ファーブル(1823-1915)…フランス/昆虫研究家、博物学者

<欲しいときに、ない>

●貧乏出身:ファーブルの場合

54歳で『昆虫記』1巻を書き上げるまで、ファーブルの人生は金運に見放されっぱなしだった。

年若い両親の生活が苦しかったため、3歳のファーブルは山奥にある祖父の家に預けられた。7歳で学校に上がるため両親のもとに戻るが、やがて家族はその日の食べ物にも困るようになる。家計の足しにとアヒルを飼い、ファーブルはその番をしたが、収入は安定しない。なんとかせねばと両親がカフェ経営に乗り出したのはファーブル10歳の時。

が、経営はうまくいかない。転々と引っ越してはカフェを再開するが、結局破産する。家族は分散し、仕方なく家を出た14歳のファーブルは、道路建設工事の土木作業員などの仕事で日々の飢えをしのいだ。今の日本だとまだ中学生……。

その後、給費生として師範学校を終えた彼は、7年間小学教師を務めた。26歳から退職までは中学教師として働くが、教員適格免状もなしに独学叩き上げで物理、数学、自然科学の学士号と理学博士号を取得して成り上がった彼は、職場で反感を持たれ、孤立していた。しかも、年棒は退職まで21年間ずっと同じだった。

金がなければ大学教授になれないと知ったファーブルは、ひと財産稼ごうと、教職の傍ら8年間をアカネ色素抽出の研究に費やす。が、安価な化学原料のアニリン色素がドイツで開発され、ファーブルの研究は金にはならないことが確定した。

仮にここで金持ちになってたら、『昆虫記』が存在したかは微妙である。

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●人生のポイント

幼いファーブルが住んだ祖父の家には、隣近所がなく同年輩の友達がいなかった。代わりに牝牛、羊、豚、鶏、犬などの動物がおり、これらを遊び仲間にした。アヒルの番を務めたときには、餌となる池の生物などに興味を広げ、玩具の代わりに虫、魚、キノコ、小鳥と戯れた。

小学教師時代のファーブルは、目標の大学教授になるまでひたすら勉強に打ち込むつもりだった。が、コルシカ島に中学教師として赴任すると、結局生物観察を優先させてしまう。島には彼の気を惹くさまざまな生物が溢れていたのだ。博物学者とも知り合い、文通を始めた。机上で得られぬこれらの体験は、後に記す『昆虫記』に生かされる。

大学教授への道を諦めた後、ファーブルは夜間学校で植物の受精の話をした。これが周囲から「不道徳」「破廉恥」と大反発を食らった。この件をきっかけに彼は教職を辞し、収入を文筆に頼ることにした。

こうして生まれたのが平易な文体の『昆虫記』シリーズである。類書が出回るまではよく売れ、中学教師時代の10倍もの収入を得る年もあった。

晩年のファーブルはノーベル文学賞に推薦され(結局受賞せず)、猫も杓子も著書を争って読むほどの名士となり、「餓死に瀕した天才」などと実際以上に貧しく言いふらされた。すでに貧乏人でなくなった彼は、洪水のように寄せられる寄付をひとつひとつ返送し、匿名の寄付は貧しい人々に与えた。一見律儀だが、内心「ちっきしょう今さら」ってとこかも。

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●もし貧乏出身でなかったら

両親が経営する流行のカフェを手伝う青年ファーブル、砂糖にたかるアリやゴキブリを退治しようとせず、その観察に熱中してばかり。あきれた親に店から離れろと言い渡され、コツコツ自習し、順調に大学教授となる。早い時期にアカネ染料の実用化に成功して羽振りがよくなった彼、フランスのファッション界を支える染料学者として社交界にデビュー。リニューアルしたカフェ・ファーブルはスノッブなフランス人の溜まり場になる。やがて彼は動物観察より人間観察に興味を持つようになり、昆虫採取よりマドモアゼル採取、フンコロガシよりも土地転がしに精を出す。が、ドイツで科学染料が開発され、店内を行き来する虫が噂になると、カフェの人気はガタ落ちに。それでも不動産収入で暮らしは安泰。
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「あなたの不幸がいかに大きくても、最大の不幸は絶望に屈することでしょう」
■プロフィール・参考文献
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2005年06月28日

ベンジャミン・フランクリン(1706-90)…アメリカ/独立宣言起草委員

<すべては金なり>

●貧乏出身:フランクリンの場合

貧しいくせにどんな家族計画を考えたのか知らないが、ボストンに17人も子供を作るロウソク屋の夫婦がいた。この夫婦の間に、15番目に生まれたのがベンジャミン・フランクリンだ。

若き日のフランクリンにとっては「より多くの金が手に入るかどうか」が第一の行動基準であり、それ以外の価値観は許されていなかった。蜜蜂が蜜を、アリクイがアリを求めるように、彼はとにかく金を求めて生きた。

8歳でフランクリンはラテン語学校に入学する。この学校の卒業生の多くは牧師となるが、それでは「将来ロクな暮らしができず、学費も出せないから」と、読み書き算術の学校へ移される。聖職の栄誉より実益第一、というわけだ。

が、こちらも10歳のときに辞めさせられ、父の仕事、ロウソクと石鹸の製造を手伝う。幼い彼がそうせねば、一家は暮らしていけなかったのである。

日本で言えば小学生が中学生になる12歳で、フランクリンは兄の経営する印刷所で働き始めた。17歳になると、印刷工の職を得ようとフィラデルフィアに移り、翌年にはさらに印刷技術を磨くため、イギリスにも渡っている。

そんなフランクリンも、印刷屋の職場では酒代を2、3週間ケチったため、仕事仲間から仲間外れにされ、小さな嫌がらせを繰り返されるようになった。渋々金を払った彼は、この体験により、吝嗇なばかりではダメだと悟ったそうである。

酒を飲む年までそんなことも知らずにいられたなんて、羨ましい気もする。

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●人生のポイント

ベンジャミン・フランクリンってのはジャニーズか何かのグループ名ではないか。そう疑いたくなるほどに、彼の業績はあまりに多い。

彼は独立宣言起草委員となり、アメリカ合衆国憲法の制定に参加し、アメリカ初の巡回図書館、アメリカ哲学協会、フィラデルフィア・アカデミー(ペンシルバニア大学の前身)を設立し、雷と電気の同一性を証明し、避雷針、印刷術、気球、落下傘、眼鏡、潜水艇、前開き式鉄製ストーブ、楽器、航空郵便などの発明をした。

このやたら幅広い活躍ぶりが何を目的にしたものかは一見判然としない。が、どれも貧しさから逃れ、より多くの富を手にするための手段だと考えれば、少しはわかりやすいかも。

彼の資本主義精神がよく表れているのが、1732年に発売されたベストセラー『貧しいリチャードの暦』。これは、格言・教訓つきカレンダーの第一号であり、本を買わない貧しい庶民をも啓蒙し、知識を伝える手段として彼が考え出したものだ。「時は金なり」などの富第一主義的な彼の名言は多くがここから生まれた。

セコい気分になりたいときにピッタリな、彼の格言をいくつか挙げておこう。

「怠け者の足ののろさよ、貧乏がすぐに追いつく」「早寝早起き、健康のもと。財産を殖やし、知恵を増す」「美食家の末は乞食」「うまい者、作る阿呆に食べる利口者」「金を借りに行く者は、悲しみを借りに行く」「引っ越し3度は丸焼け同然」……

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●もし貧乏出身でなかったら

牧師となり礼拝の効率を徹底追求。「日曜の朝がラクになった」と大好評の巡回教会や、小難しい討論をしながら洗礼や懺悔もできるアメリカ哲学教会を設立。さらに、教会に生命保険の代理店制度を持ち込み、「誰かが死ねば葬儀代で、生きれば保険料で」確実に稼げる教会の運営方法を編み出す。ルターに憧れて神の啓示を受けようと落雷見物をするが、雷に撃たれた拍子に思わず電気を発見。十字架タイプの避雷針を開発し普及させると、無心論者も十字架に頼るようになりローマ法王も大喜び。右の頬をぶたれたら瞬時に左の頬を差し出せる便利な電化製品を発明し、より効率的に神の教えを大衆に伝達するため、娘をアレサと名づけてゴスペル・シンガーに。
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「寝たいなら墓場に入ってからでも少しも遅くはない」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(5) | 貧乏出身 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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