2005年09月30日

パブロ・ピカソ(1881-1973)…スペイン/画家

<女、女、女>

●不倫:ピカソの場合

ピカソの絵のモデルになりたいなんて勇気のある女がよくいるものだ。彼女たちの写真が残っていなかったら、どんな奇怪な風貌の人物と思われても仕方ない。

そりゃ、最初の妻、オルガのようにまともに描かれる可能性だってある。が、『フェルナンドの顔』を見た後世の人々は、本当にこのモデルは人間だったのかどうかというところから話を始めなくてはいけなくなるだろう。小顔とほっそりしたスタイルが魅力的なはずの『マリー・テレーズ』は、実物とは似ても似つかない妖怪……青緑の肌とオレンジの爪を持った全身福笑いとなって描かれている。

そのマリーと取っ組み合いのケンカをしたドラ・マールがモデルの『泣く女』なんて、いったい何の恨みがあればこんなひどい描き方ができるのか? と思われるほど恐ろしい醜さだ。写真のドラはエキゾチックな美人なんだけど、絵のほうが有名になってしまった以上、『ゲルニカ』の製作過程を撮影した彼女も、末代まで子供たちに笑われ続けるだろう。

ピカソは言った。「私にとってドラは、常に泣く女だった。だから彼女を泣く女として描いたのだ」そしてさらに、こう付け加えている。「女性は苦しむ機械だ。私は本質を捉えたわけだ」

確かにピカソは女泣かせな男だ。女を苦しめることも平気だった。(自分についても相手についても)配偶者の有無に関わらず、常に女をとっかえひっかえする彼の生き方は、彼の絵と同じくあまりに自由で、どうかしていた。

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●人生のポイント

彼が不倫したことより、なぜ結婚したかのほうが謎なんだけど、その理由はピカソが生涯最期に発したこの一語にあるのだろう。

「女って、いいもんだよ」

ピカソは交際相手を変えるたび、画風や題材を変えた。「概していえることは、妻や愛人が変われば、彼の芸術にも変化が起こるということです」というドラの言葉どおり、女性との関係が「変貌する画家」ピカソを作った。

例えば、彼が売れっ子画家となったのは、暗い「青の時代」が終わり、「薔薇色の時代」と呼ばれる明るい色調の作風に変わってからだ。これは売春婦との交渉をやめたピカソが、オリヴィエとの同棲生活を始めたことによる。ピカソに芸術家たちとの交友関係を築いたエヴァは社交家で、彼をキュビズムに導いた。古典主義への回帰を生じさせたのは、最初の妻オルガとの出会いからだった。ピカソをふった女フランソワーズはピカソが陶芸に専念できるよう、工房をしつらえた。

ただし、ピカソと深く関わった女性たちが、幸せだったとは限らない。オルガやドラは精神を病んだ。2度目の妻ジャクリーヌはピカソが死ぬと、ピストルで自分の頭を打ち抜いた。孫のひとりはピカソが死んで3ヵ月後に漂白剤を飲んで自殺した。ピカソの娘マヤを生んだマリー・テレーズは4年後にガレージの中で首を吊った。

そんな話を聞いたところで、それだけ「ピカソって、いいもんだったんだろう」という気にさせられてしまうのが、彼の怖いとこである。

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● もし不倫しなかったら

はじめのうちは、若い女やらオールド・ミスやらを追いかけまくり、生理中の女性を描いた『青の日』、女性の首だけを題材にしたシリーズ『首ズム』で注目を集める。しばらくは女を変えるたびに画風を変えてゆくが、結婚した後は、同じ作風をしばらく維持しつつ、自分の妻を追求。妊娠し、年老いていく女性の微妙な変化を抽象的かつ過剰に描き賞賛を浴びる。が、娘が生まれるたびにそっちに関心が移り、成長を追うようになる。蚊に刺された長女を描いた『掻く女』、腹痛を訴える次女を描いた『下痢か?』などは彼の代表作に。やがて、自分の顔を怪物のように描かれた三女が失踪、ケダモノのように描かれた四女は引きこもりに。
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2005年07月05日

マリー・キュリー(1867-1934)…ポーランド→フランス/物理学者、化学者

<ガイジン女の隙>

●不倫:マリー・キュリーの場合

44歳のとき、マリー・キュリーは6歳年下の物理学者・ポール・ランジュバンと愛人関係にあった。第3回ノーベル物理学賞を共同受賞したマリーの夫ピエールは、6年前に交通事故で亡くなっていた。

妻と別居していたランジュバンは、ピエールの生徒であり友人であった。理解のない妻との離婚を望む彼が、顔見知りのマリーに相談を重ねるうち、2人は親しくなったのだ。

1911年、新聞が2人の交際を報道すると、マリーはバッシングの集中砲火を浴びる。まもなく、彼女がランジュバンに宛てた手紙は、彼の妻の手を通して誌面に公表されることになる。ランジュバンが妻と別れて「幸福になる権利」「自分の人生を生きる権利」という手紙文中に示された考えは「功利主義的な科学的道徳」を擁護するものとして、徹底的な攻撃の対象となる。

群集はマリーの自宅周辺に集まり、「外国女は出て行け、夫泥棒」などと罵声を浴びせ、石を投げつける。仕方なくマリーは友人の家に避難しなければならなかった。

そもそもフランス人にとって、男性の不倫というのは日常茶飯事。普通であればわざわざ騒ぎ立てるほどの話ではない。実際、ランジュバンはマリーとの関係を終えた後、名もない秘書を愛人としたが、彼の妻はマリーのときのように訴えたり脅したりなどせず、周囲も黙認した。マリーが執拗に批判されたのは、彼女が高名な女性であり、外国人だったためなのである。

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●人生のポイント

「女性」であり「外国人」であることにより不利な立場に立たされたのは、マリーにとって初めてではない。ランジュバンとの関係によりバッシングを浴びる直前、マリーはフランス科学アカデミーのメンバーに立候補し、1票差で落選している。実績からすれば彼女がメンバーとなるのは当然だが、「伝統あるアカデミーに女を入れてたまるか」という反発が生じたのだ。

不倫バッシング覚めやらぬ中、マリーは2度目のノーベル賞を受ける。このときの化学賞受賞は、純粋な金属ラジウムの単離に成功したため、となっているが、すでに存在の確認されている物質を取り出しただけのこの業績が、2度目の受賞に値するかは、未だに意見が分かれる。有力な科学者仲間が、再起不能かと思われるほどに窮地に立たされた彼女を、再度のノーベル賞で助け出し、励まそう、という動きはあったらしい。

1903年にノーベル物理学賞を夫と受賞した時、マリーは「初めてノーベル賞を受賞した女性」だったが、この受賞により「初めてノーベル賞を2度受賞した人」となった。それまでマリーを「夫の力で受賞した女」と見なしていた者も「2度目」「単独」でのノーベル賞受賞により、彼女への見方を変えていった。

こうして徐々にスキャンダルは風化した。第1次世界大戦中に娘イレーヌとともに放射線装置で傷痍兵の治療にあたったことも、マリーの名誉挽回を生んだ。受賞とわかりやすい社会貢献は、マリー自身を救ったのである。

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●もし不倫しなかったら

東に「山内一豊の妻」西に「ピエール・キュリーの妻」あり、ってな具合にマリーの評価は「内助の功を果たした良妻」として定着。彼女のノーベル賞共同受賞、放射能の影響らしき第二子の流産・体重の激減・白血病による死は、夫の放射能研究に一生を翻弄された女の波乱万丈ストーリーとして語り告がれ、科学的業績はそのほとんどが夫の力によるものとされ、1度きりの受賞体験が彼女の人生のピークだったと評される。20世紀中盤には「自然科学系の女性ノーベル賞受賞者は最初3名すべて夫との共同研究」という事実を突きつけられ「やっぱ女1人じゃノーベル賞は無理」「あわよくば」と死に物狂いの仲睦まじさで夫の研究を手伝う科学者の妻が続出。
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「人生において恐れるべきことは何もない。必ず解決できるのだから」

■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 不倫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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