2005年12月06日

トーマス・マン(1875‐1955)…ドイツ/作家

<弱点を認める>

●亡命:マンの場合

「ワーグナーの芸術は非常に魅力的なものだが、そこには異常性や弱点もあり、批判されるべき点がある。今日的に(つまり、ナチスのように)彼の芸術を民族主義と意味づけて賞揚することは許されない」

『トニオ・クレエゲル』『魔の山』などで知られるノーベル賞作家マンがこんなふうに述べたのは、ワーグナー没後50年を記念して行った講演(『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』)の中である。

翌日、マンはオランダへ単なる講演旅行のつもりで旅立ち、その後2度と祖国の地を踏むことはなかった。ドイツのメディアが「マンはヒトラーの愛するワーグナーをけなした」とみなし、抗議文を掲載するなどして大バッシングを始めたのだ。当時のドイツはナチスに脅かされ、こんなアホなことになってて、マンが帰郷するには危険すぎたのである。

同年、ナチスは公の場で彼の著作を燃やした。同時に焚書されたのはアインシュタイン、カフカ、ヘレン・ケラー、フロイトなどの書。今からするとここで焼かれるほうが名誉のような。

だが、マンの追放処分は見送られていた。ドイツをテーマに度々取り上げる世界的に有名なノーベル賞作家は、国家の宣伝になると見なされたのである。

マンのほうもドイツを離れたまま、ナチス批判を明言せず、あいまいな立場をとっていた。彼は「自分の著作が禁書扱いにならずにドイツ国内で読まれれば、ファシズムへの反発が国民に広がってゆくはず」と考えていたのだ。その後がなきゃ、傍目には単なる無難路線にしか見えないけど。

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●人生のポイント

1936年、マンはヒトラー政権への反対を宣言した。ナチスに敵対する亡命作家だと見なされていない自分に気づき、態度を改めたのだ。これを受けてナチス側は、マンの財産を没収し、市民権及び国籍を剥奪した。

が、亡命後もマンはドイツ文化を愛し、ドイツ国民を見棄てなかった。

第二次大戦中、彼は英BBC放送を通じ、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。敗戦直後もドイツへ向けてファシズムからの解放を祝い、マンの「自国」であるドイツの国民は「ナチス呪縛からの断固たる決別をはっきり示すべきだ」と語りかけた。

さらに、大戦中を含む7年を費やしてマンは『ファウスト博士』を書きあげた。この書により、非理性的・盲目的な情熱から悪魔に魂を売り渡していったドイツの運命を描き出したのである。

この作品は「ドイツによる自己批判」として、マンの政治姿勢とともに世界的評価を得た。祖国を愛し、その芸術を誇り、自分がドイツ文学者だと一瞬たりとも忘れなかった彼は、ドイツ精神の欠点に最後まで向き合ったのである。

ドイツはマンのメッセージを汲み取った。強制収容所などの忌まわしい過去の残骸をはっきり展示して直視し、自国の過去の過ちを認めながらそれらを反省し続けるという姿勢は今も貫かれている。「愛国」を盾に、過去に犯した過ちから目をそらすより、まずはマンから本当に正しい「国を愛する」姿勢を学んでみてもいいだろう。

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●もし亡命していなければ

対戦中はとにかく妥当な路線を探って、なんとかナチスからの追放を免れる。が、戦後はワーグナーを讃えた愛国的作家として世界中から白眼視され、ナチスに加担したことで同じく白眼視を集めるハイデガーと仲良くなって人生相談。『ファウスト博士』により奇跡的挽回を果たしドイツ以外の各国から讃えられるが、「自分ばっかり安全なところにいたくせに偉そうなことをいう調子のいい奴」と、ドイツ国民から猛反発を浴び、裏切り者の烙印を押される。やがてアメリカで赤狩りが始まり、意見を求められると、過去の無難路線を反省してマッカーシーを批判するが、一部の人々から「今さらわかったようなこと言いやがって」と屁理屈的な批判を浴びる。
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2005年10月04日

リヒャルト・ワーグナー(1813-83)…ドイツ/作曲家

<多才?>

●亡命:ワーグナーの場合

内容より音楽重視なオペラを否定し、独自の理論に基づく「楽劇」なるものを産んだワーグナー。彼は作曲家のくせに、ドレスデン革命で大奮闘した。

彼の活躍は、革命参加を促すビラの制作・配布、手榴弾製作工場での労働、王政主義者側の動向視察(といっても実際は教会の塔での見張り)etc…幸か不幸か、人を操る曲ベストテンとかやったら必ずランクインするであろう自分の曲を革命には利用しなかった。

彼の革命熱は、社会主義的な思想以上に、実生活の不満から生じていた。当時宮廷劇場の指揮者だった彼は、給与の増額を要求し、拒絶された。その頃、議会に宮廷劇場への補助金停止が提案されたのだ。

官憲や支配階級の芸術に対する無理解に腹を立てたワーグナーは、芸術を暇つぶしの娯楽としか考えない有産階級、芸術を鑑賞する時間的経済的余裕のない無産労働階級、いずれも問題視した。で、「現状を変え『人間社会の芸術的秩序』を完成させるには、革命!」と考える。人間社会の芸術的秩序……具体的にはよくわからないが、魅力的な響きだ。

が、革命は失敗に終わった。

共和党でも民主党でもないのに派手に動いた彼は、首謀グループの一員と見なされ、「国家反逆罪」の逮捕令状が出る。が、大金や偽の旅券を手配し、辛くも逃亡した彼、スイスで11年間の亡命生活に。

ちなみに彼と同時期の令状で逮捕された者は、ほぼ皆死刑。惜しい、ここで奴が死んでたら……ってユダヤ人も多いだろう。

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●人生のポイント

この亡命がワーグナーを西洋音楽至上、比類ない存在に押しやった。

亡命中に記した芸術論により打ち立てた「総合芸術」理論に基づき、彼は「楽劇」(彼自身はこの名を嫌がったが、一般的な定義は「ワーグナーとその後継者の作品」)を構想した。この「楽劇」は音楽という一要素を最優先させるのでなく、劇自体が究極の表現目的となるよう、音楽、文学、舞踊、絵画、建築などあらゆる芸術が統一、融合すべきだとした。

「楽劇」実現のため、作曲専業の世界に、彼は映画監督的手法を持ち込んだ。自作の台本を自ら執筆し、演技や衣装の指導、劇場建築すべてに指示を出し、「総合芸術」理論に基づいて『ニーベルングの指輪』が完成した。12時間を4晩で演じるこの大作の規模は未だに超えられていない。

随筆「音楽におけるユダヤ性」も、亡命中に発表されたものだ。ワーグナーが「自分が嫌いな人を誰でもユダヤ人とした」といわれるほど支離滅裂な反ユダヤ思想を語るこの文章も、彼の曲も、後にヒトラーが寵愛。ナチスが彼の曲を党歌代わりに扱う最大の理由となる。

なお、ワーグナーの父親がユダヤ人である可能性はわりと高く、彼のユダヤ人への反発はかなり個人的な事情による。彼は当時、ユダヤ系作曲家と敵対し、ユダヤ人の高利貸しから借金の取立てに苦しめられていた。おそらくはそんなバカバカしい理由が発端で、現在もイスラエルで彼の「楽劇」を上演するのはとっても難しい。

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●もし亡命していなければ

依頼もないのにビスマルクを讃え『皇帝行進曲』を作曲した際、身元が割れ、「社会主義者が宰相をナメた曲」と楽譜は焚書扱い、逮捕令状再発行。窮地に陥るワーグナー、ルードウィッヒ国王により救出され、インテリア凝りまくりの超贅沢な隠れ屋生活。謎に包まれた作曲家と国王との怪しい関係は風刺画にされ、やおい本の草分けに。その後も匿名で作曲&脚本執筆を続けるが、作者不明のド派手な舞台を観た者は、曲と台本を同じ人間が作ったと気づかぬまま「長すぎ」「金かけすぎ」「死を美化しすぎ」「古い神話を蒸し返した小難しいストーリーで曲が台無し」などと噂する。哲学界では「完璧!」「台本は見事、曲は不要」その他、評は分裂。
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2005年07月26日

孔子(前551-前479)…古代中国/思想家、儒教の祖

<69にして挫折>

●亡命:孔子の場合

「50にして天命を知る」といった孔子だが、彼自身は50になっても自分の運命がどうなるのかわかっていなかった。

孔子が「政治の道に従事しよう」と本格的に考えるようになったのは50歳頃のこと。ずいぶん遅いが、51歳で中都の宰に任命され、翌年には中央官職となり、着々と実務の腕を振るった。54歳で魯の大司寇(司法大臣)となるが、翌年には横暴政治への改革をはかって失敗。結局、実質的に政治に従事したのは、55歳で職を退くまでの数年間に過ぎなかった。

その後、孔子は亡命の旅に発ち、自分の理想とする政治を採用してくれる君主を捜し求めて放浪する。14年間、曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚の諸国を流浪し遊説してまわるが、彼の為政案はどこへ行っても採用されなかった。旅の途中には、人違いで殺されかけたり、飢えたりもして、3度も命を落としそうになった。こんなひどい目にあった亡命だが、何の役に立ったのかよくわからない。

結局、69歳のときに帰還を求められたため、孔子は祖国の魯に帰る。しばらくは大夫として待遇されたものの、彼の意見は聞き入れられず、最後まで政治の場に登用されることはなかった。55でリストラされて求職にあがくが不採用を繰り返し、70歳近くでようやく職を諦めた孔子。彼を皮肉った「孔子一生就職難」という言葉があるが、普通もう30年くらい若いうちに体験しておくようなことじゃないだろうか。

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●人生のポイント

孔子の名が中国思想史に残るのは、政治に挫折した、亡命後の活動による。彼が政治家として成功していたら、春秋末期の為政者として小さく名を連ねただけだろう。

政界への望みを絶った孔子は、『詩(後の詩経)』や『書(書経)』など典籍の整理をし、これを教材として弟子の教育に専念した。当時集まった若くて優秀な弟子たちは、孔子が壮年に教育した先進の弟子に対し、後進と呼ばれた。この後進たちが残した孔子の言行記録が、儒教の経典『論語』のもととなる。

実は孔子、政治の道を歩もうとする前から「どうして政界に乗り出さないのか」としばしば人に尋ねられていた。もともと、法律や政令による規制よりも、道徳や礼儀を教え導くことが理想的な支配方式だと考えていた彼は「親孝行をし、兄弟仲良くすることが政治への施しとなるのだ」と答えていたのである(このずいぶんのんきで陰険な考え方は、後に魯迅や毛沢東などの急進的革命を目指す人たちに嫌われる)。

先進も含め、孔子が生涯に教えた弟子は全部で3000人。そのうち六芸(礼、楽、射、御、書、数)に通じたものは72人(「弟子三千人、六芸に通ずる者七十二人」)といわれるほどに、学問の普及にはかりしれない影響を及ぼした。亡命せず、ずっと教育に集中していれば、もっと大きな功績を残していたのかもしれないが、年とってから甲斐のない亡命生活をしてしまった焦りが、晩年の信じ難いエネルギーになったように見えなくもない。

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●もし故国に留まっていたら

55歳で政治改革に失敗して以来、「もうちょっと政治をやりたい」というフラストレーションを抱えつつも、魯で教育及び編纂活動に専念。後進たちに問いつめられ「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ」の続きを「四十にして惑わずといいたいところだが実はかなり惑った。五十にして天命を知ったかと思ったけど勘違い。五十五にして大失敗、六十にして耳が遠くなり、六十五にして政治はきっぱり諦める。七十にして孫誕生でちょっと嬉しい」と本音を告白。離縁した妻、長く離れて暮らした息子のことなど、あまり触れないようにしていた話題にも口を滑らせたため「夫婦・親子仲良く」と説く儒学の教義に「但し時と場合による」と注釈が加わる。
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「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 亡命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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