2005年11月22日

ヘルマン・ヘッセ(1877‐1962)…ドイツ/詩人・小説家

<病は名作へ>

●精神病:ヘッセの場合

「頭痛がして、それを治すには誰かを殺さねばならない、そして自殺する。そしたらこの荒涼たる世の中から救われる」

『車輪の下』で知られるヘッセは、エリート神学校在学中、こんなことを友人に語っていたらしい。こんなだから当然ともいえるが、彼は同級生たちに気味悪がられていた。森を散歩していて枯草に火をつけ13歳で監視人に捕まった彼は、14才で学校を脱走した。

周囲からは精神病院への入院を促されたが、彼の母は症状の悪化を恐れ、入院を強く反対した。代わりに、ヘッセは霊感療法で名高い牧師にあずけられた。両親は息子の脱走を、悪魔が取りついたせいだと思い込んだのだ。

新しい環境でしばらくは落ち着きをみせたヘッセだが、再び頭痛と不眠に悩む。旅行先で出会った年上の女性に愛の告白を拒絶されると、自殺のために銃を購入。目的は遂げられなかったが、その理由を手紙に「自分に打ち勝った、それとも臆病だったのかもしれません」と記した。

そんなこんなで、彼は再び精神病院入りを要求される。が、またしても母はこれを拒絶し、ヘッセを別の牧師のもとに移す。牧師に「神やキリストに心を向けよ」と説かれた彼は「この神の中に妄想以外のものをみることができない」といい(そりゃそうだ)、やがてギナジウムを退学する。

その後、書店の見習い店員になるが、2日間勤めると脱走し、行方不明に。1歳では骨折してまで女中から逃げ、幼稚園もサボったという彼、スジガネ入りである。

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●人生のポイント

彼の2度目の発病は、第一次大戦中だ。彼が新聞コラムで「戦争熱にかられ、憎悪をあおることをやめよう」と反戦を訴えると、ドイツのメディアは彼を「売国奴」「裏切り者」とバッシングし、多くの友人がヘッセから離れた。

著作は出版を停止され、経済的にも苦んだヘッセだが、同時期にドイツ人の捕虜を保護するため、献身的に働いた。慰問のため『ドイツ捕虜文庫』を編集し、自宅を事務所にして仕事に没頭する。多忙のあまり私生活に手が回らなくなると、息子は発病、妻も精神病で入院。ヘッセ自身、抑鬱が激しくなり、ノイローゼに。

彼はユングの弟子ラングの治療を受け、ユングとも知り合い、精神分析の研究を始める。無意識の世界やアニマ(無意識内に存在するとされる、ユングが仮定した女性像の元型)を学ぶと、『デミアン』『アヤメ』を書き上げる。

偽名で発表した『デミアン』は、主人公が年上の転校生に導かれ、既成の価値観に抑圧された自己を解放し、無意識に埋もれた「本来の自己」を発見するという話で、童話『アヤメ』には、亡き母や精神病の妻を思わせるアニマ像らしきものが示されている。いずれも精神分析の影響大で、作品を書くこと自体が治療になってそう。

若い頃の神学校や脱走体験は『車輪の下』に描かれている。読んでると、実はヘッセ自身よりまわりのほうが変だったんじゃないかとか、彼がおかしいとすれば自分もおかしいとか思えてくるが、実際そういうことかも。

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●もし精神病にならなければ

学校かったるいなと思いつつも卒業するまできっちり通ったり、全然信じられないと思いつつも牧師から神の言葉を聞きながらうんうんうなずいてみせたり、面倒くさいし自分にこの仕事は向いていないし上司のことも嫌いだと思いつつも親の紹介してくれた勤め先で毎日働いたり、平和に暮らしていければそれに越したことはないなあと思いつつも戦争が始まれば愛国心に浮かれた周りの人々に話を合わせるため戦意を語ったり、ナチスから発禁本のお達しが出るとそれを本棚から取り除いたり、ドイツがボロボロに敗戦すると今度はあちらこちらの平和運動やってる団体に加入を迫られて次々と入会したり……って、なんだかものすごくどこにでもいる人のような。
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2005年09月13日

エドワルド・ムンク(1863-1944)…ノルウェー/画家

<狂人だけがこの絵を描ける>

●精神病:ムンクの場合

『叫び』で知られるムンクが、治療が必要なほどにはっきりと精神を病んだのは、45歳前後のこととされる。

きっかけは恋愛のもつれから始まった。ムンクは35歳のとき、ワイン商の娘マティルデ(通称トゥラ)・ラルセンと出会う。彼女はムンクのモデル兼恋人となって、結婚を迫るようになる。

自由を愛したムンクは、生涯誰とも結婚するつもりがなかったので、結婚の提案を度々断った。トゥラはムンクの友人たちに協力を仰ぎ、恋人と2人きりになることに成功すると、ピストルを使って狂言自殺を演じる。あわてたムンクがトゥラの手からピストルを奪おうとしたところで暴発。弾丸は、ムンクの左手中指を吹き飛ばした。

裸体のトゥラをモデルとした『罪』は、事件の前の年に作成された石版画だ。わずか二色で刷られたこの画は、見る者に複雑かつ壮絶な恐怖感を感じさせる。これを作りながら、ムンクはすでに来るべき何かを予感していたようにも思える。傷を負った彼に対し、仲間たちの多くがトゥラの味方をしたので、ムンクは大勢の友人と喧嘩になり、絶交した。

やがて、ムンクの精神は異常をきたし始める。すべての人間が自分に陰謀をたくらんでいるのではないかという強迫観念や幻覚に襲われ、アルコールに溺れる。ボロボロになった彼はあてどなく旅し、神経性の病に倒れることもあった。旅先のコペンハーゲンで3日3番痛飲した彼は、ついに自ら精神病院に入院する。

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●人生のポイント

「入院で健全を得た代わり、天才を失った」といわれるムンクの絵は1907〜9年を境に、同一人物の作品とは思えないほど大きく変化している。彼が病院生活を過ごしたのは、45〜46歳の時であり、この時期が彼の入院期間に当たる。

つまり。精神病になる過程でなく、治療の段階で彼の絵は変わったのだ。『病める子』『叫び』『マドンナ』『不安』といった、人間の内面世界を視覚化することで衝撃を与える、いわゆる「ムンクらしい」作品は、入院以前に集中している。

精神病院での生活は快適で、外出も自由だったので、ムンクにとってそこはよい仕事場となった。「自己の体験を描くことが薬になる」というパトロンの言葉どおりに彼は描き、病から脱していった。

退院後、ムンクの作品は「ムンクらしくない」ものになった。「苦しみを取り除いてしまえば、私の芸術は破壊されてしまう」「芸術は自然の反対である」「芸術作品は人間の内部からのみ生まれる」と述べたはずのムンクは、自らの発言をないがしろにするかのように、朗らかで陽光が溢れ、生命への賛美に満ち、幸福を感じさせる健全な絵を次々と仕上げ、自然物のみを描くことも多くなった。

これらの絵は「駄作」とされがちだ。が、退院後の7年間を、ムンクは生涯でもっとも幸せと安らぎの中に生きた。

入院以前の彼を「死におののく異常感覚者扱いしすぎ」という意見は一理あるだろう。それでも、代表作『叫び』の油絵版に記された、「狂人だけがこの絵を描ける」というムンクの言葉と、入退院により彼の絵が一変したという事実は揺らがない。

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●もし精神病にならなければ

事件後に精神病が発症しなかったら:左手のなくした箇所を題材にした『指』、その後の気ままな放浪を描いた『旅』を完成。『叫び』『指』『旅』は三美作と呼ばれるようになる。精神病になった妹の気持ちをヒトゴトのように感じつつも、彼女を題材にした作品を矢継ぎ早に発表。常に人の体から妙な色の人魂みたいなものが記されたこれらの作品は、以前完成させた「生命のフリーズ」の続編と「精神のフリーズ」としてまとめられる。

はじめから彼にまったく狂気がなかったら:彼の作品は「狂気の沙汰」といわれて批評家たちに大顰蹙を買うことも、ナチスに頽廃芸術の烙印を押されることもなくホドホドの評価を受ける。「よくありがちな画家」としてテキトーな活躍ぶりをみせて彼が一生を終えると、作品も彼自身も時代とともに忘れ去られる。munch.jpg
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2005年08月09日

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)…ドイツ/思想家

<人間だというのは偏見>

●精神病:ニーチェの場合

「弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これがすなわち我々の人間愛の第一命題である」こう記したニーチェ、晩年は自らが精神の病に陥った。

1889年1月、ニーチェはトリノの街路上で倒れ、2日間昏睡を続けた。目覚めた彼は梅毒による精神錯乱が発症して、町をさまよいながらむやみに歌い、通行人に近づいては「私は神だ。こんな姿に変装しているのだ」と自己紹介。もはや彼でなくなってしまった彼から「アリアドネ、私はあなたを愛する。ディオニソスより」というラブレターらしき文書を受け取ったのは、作曲家ワーグナーの未亡人、コジマだった。下はその内容。

「私が人間だというのは偏見です。(中略)私は人間が経験できるすべてのことを、卑小なことから最高のことまで知ってはいます。しかし、私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアでは、ディオニュソスでした。――アレクサンダーとシーザーは私の化身です。最後にはヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ワーグナーであったかもしれません。(中略)私は十字架にもかかったことがあります」

記された言葉は誇大妄想的で矛盾だらけで分裂病者の書いたものにしか見えないけれども、超人的かつ超越論的でとってもニーチェらしい。結局、発狂から死までの11年間、彼は著作も会話もできず、それまで得たことのないほど自分への名声が高まってゆくのもわからぬまま、死を迎えた。

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●人生のポイント

発症の直前に完成した『この人を見よ』の中で、ニーチェは「なぜ私はこれほど賢いのか」と自己讃美を書き連ね、自らの正常さを必要以上に強調している。これらは来るべき状態をひどく意識した冗談のようにも見える。

「ある医者は、私をかなり長い間神経症患者扱いをしていたが、しまいにこう言った。『いや! あなたの神経は何ともない。私の神経が心配症だったのです』と。私の体のどこかが部分的に弱いなどということはまったく指摘できない」「私にはどんな病的傾向もない。人々が私という人間の中に狂信性の傾向を捜しても無駄である。私の生のどの瞬間を取り上げても、そこに何らかの思い上がった、大げさな態度を指摘することはできまい」

彼の精神錯乱の原因は、若い頃に遊んだ売春婦から梅毒菌を移されたため、とする説が有力である。29歳頃からすでに症状は始まっていたようだ。極端に悪化した35歳の時、ニーチェは死を覚悟し、この年を「わが生涯の最も暗い冬」と呼んだ。

頭痛、嘔吐、めまいは年を重ねるに伴い激しくなり、視力も急速に減退して、発狂した44歳からは完全な進行麻痺(梅毒感染後、長い潜伏期間を経て起こる脳疾患。痴呆症状を示し、手足が痙攣、体が麻痺し、人格が完全に崩壊して死に到る)となったようだ。無邪気な欲望や感情を賛美したニーチェ。晩年の姿はその思想を完全に体現しただけなのではないか? という恐怖感を呼ぶところが、この人の魅力のひとつ、なのかも。

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●もし精神病にならなければ

口を開けば既成の道徳や近代の学問、宗教、政治を批判しながら老いてゆくニーチェ、やがて意味を持つもののすべてがバカバカしく感じられるようになり、意味も目的も根拠もなくただその日その日を欲望に任せて幼子のようにはしゃいで暮らすようになる。晩年のお気に入りであるビゼー「カルメン」をオルガン演奏しては踊りまくり、街で動物が通るたびに抱きつく。その姿はとうとう彼はボケてしまったのかという周囲からの誤解を生むが、作曲家ヨハン・シュトラウスと交わり、合唱隊を加えて「ツァラトゥストラ」を共同発表して名誉挽回。妹エリザベートと顔をあわせるたび「ユダヤ人差別はおかしい」「教会での葬儀はよせ、やるならせめて寺にしろ」「俺の書いたものを改竄するな」などと告げ、最期は老衰死。
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「もはや誇りをもって生きることができないときには、誇らしげに死ぬべきである」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 精神病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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