2005年09月27日

スタンダール(1783‐1842)…フランス/作家

<数多く緻密な遺書>

●生前不遇:スタンダールの場合

失恋ばかりをやたらと繰り返し、一度も結婚していない男の書いた『恋愛論』を、誰が読みたがるだろう。他人の意見の無断盗用を繰り返し、それを批判されても繰り返す男を、誰が信用するだろう。

スタンダールとは、そういう男だった。そして生きていた頃の彼は、無名だった。

37歳の時に書き上げた『恋愛論』の場合、出版当初、売れたのは22冊。小学生の卒業文集だって、もうちょっと出回るのが普通だ。その後2年経っても、40冊も売れなかった。今や世界各国で読まれまくっている代表作『赤と黒』は47歳の時に出版されたが、死ぬまで再販されなかった(発行した部数より売れた数のほうが少なかった)。

あと4年で寿命という55歳の冬、体が思うように動かせなくなった彼は、口述筆記によりわずか53日で小説『バルムの僧院』を仕上げた。出版の翌年、この作品は偉大なるバルザックに「世紀の傑作」と、大絶賛される。

が、バルザックの手がけた数々の事業同様、この激賞は何の好ましい反響も生まなかった。出版時、わずか13冊が売れたのみで、スタンダールは世間から黙殺され続けた。

1841年、死の1年前。すでに出版された『バルムの僧院』1ページ目に、彼はこう書き付けた。「女を3人手に入れるのと、この小説を書き上げたのと、お前にはどちらがマシだったか?」

どちらがマシ、かは謎である。ただ、彼が「『バルムの僧院』を書く労力を他にまわせば女が3人手に入るようなモテモテ人間」ではなかったことは確かだ。

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●人生のポイント

スタンダールの遺書の数は、彼の遺した作品の数よりはるかに多かった。

若い頃から精神の安定を欠くことの多かった彼は、度々死を想った。彼は世間からだけでなく、愛する女性にも拒絶され、時には自殺を考えた。22歳のときはそのための毒薬を友人に頼み、死を目前にした1840年には、自らを撃つための銃を買い求めている。

彼は20代の終わりから、何度となく遺書を書くようになった。1828年だけで4通、1835年には10回以上それを記した。

遺書だけあって、書面には様々な指示が盛り込まれた。死後出版の依頼、財産贈与、墓地の希望、原稿の遺贈。

時々、死者の言葉は生きている者より力を持つ。

別に幽霊なんか信じてなくても、死んだ人からの頼み事というのは、無視しづらいものである。死後、彼の原稿の多くが日の目を見たのは、遺書により依頼を受けた者たちの責任感によるところが大きい。

とはいえ、スタンダールにも自信があったのだろう。59歳まで生きた彼が墓碑銘「生きた、書いた、愛した」を選んだのは、『恋愛論』を書き上げた年、37歳の時だった。「結局のところ、生きる価値なんてあるのかね?」「私は自分の書いたものを読ませる何らかの才能があるという確信はまったく持てない」などと記しつつも、彼は自分を認めてくれるバルザックへの手紙に本音をのぞかせている。

「白状しますが、私は1880年には少しは有名になるだろう自恃の念を持っているのです」

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●もし生前に評価されていたら

突然受験放棄し決闘騒ぎを起こし女からフラれまくる「まずい顔立ち」のドジ男が書いた『恋愛論』がコメディ本と勘違いされて大人気。これを恥じたスタンダールが遺書ばかり書いているのに気づき、編集者が週刊誌にそれを無断連載。怒った彼だが、すでに発表した彼の美術論や伝記に剽窃が多数見出されることを各方面から指摘され、結局沈黙を決め込む。連載が単行本化されると、「コメディ作家が書いた『遺書』」と見なされ大ウケ。こっそり書き溜めていた彼の自伝も無断で出版されると、「滅茶苦茶な構成」「文中に悪筆や作品自体の弁明を入れる手法」「走り書きのいい加減な作図など、細かい部分の不正確さ」が新鮮、と、妙な礼賛がまき起こる。
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posted by 73 at 23:59| Comment(10) | TrackBack(0) | 生前不遇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

グレゴール・メンデル(1822-84)…オーストリア/修道士、遺伝研究家

<修道士の奮闘>

●生前不遇:メンデルの場合

「見ていてごらん、今に私の時代が来る」と周囲に語ったメンデル。彼の生きている間、ついにその時代は訪れなかった。

生活苦のために修道士となったメンデルは、自然科学を愛好していた。ダーウィンの『種の起源』を愛読した彼は、進化論を証明する道具としてエンドウを選び、225回の単調な交配実験を8年間にわたって続けた。実験には彼の勤める聖トマス修道院の中庭縦15メートル、横20メートルほどの狭い土地を使った。数学を得意とした彼は、12980個の雑種を育て、これらを統計処理し「メンデルの遺伝の法則」を導き出した。

この研究成果を1865年2月に発表。翌年には論文「植物雑種の研究」が無名の地方学会誌『ブリュン自然科学会誌』に掲載される。

が、当時はこの論文に対する反応はゼロ。完全な無視をくらったメンデルは、交流のあった生物学界の権威者ネーゲリに論文を送る。

しかし、エンドウのような栽培品種の種形成は研究価値がないと考えていた彼、論文を無価値と決め付けた。

ただし、メンデルを「利用できる奴」と思ったようだ。2年後にはネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナ属を与えられ、メンデルはこの交配実験を開始する。

この種は受粉なしに種子をつける(当時は未明だった)うえ、非常に細かい作業を要し、交配実験には不向きだった。思うような成果を得られぬままメンデルは目を悪くし、結果的にネーゲリは彼を不幸にした。

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●人生のポイント

その後もメンデルは研究や実験を行うが、修道院長となった彼には雑務や身体的な問題が生じ、時間を割けなくなった。

晩年の10年間を、メンデルは修道院税法への反対闘争に費やした。差し押さえを受けても味方を失っても、頑固一徹の姿勢で執拗に(研究の仕方もこんなだったのだろう)異議を申し立て続ける彼は、「誇大妄想の修道院長」「訴訟狂」「精神病では」と噂された。

やがてメンデルが病に倒れると、代理人はさっさと税法に降伏し、妥協した。徴税闘争にエネルギーを使い果たし、完全に打ちのめされたメンデルは、日の目を見ぬまま死んでいった。

さて、彼の論文が発表されてから34年後、彼の死から16年後の1900年、オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマックが立て続けに、メンデルの文献を引用した論文を発表した。彼らは各自交配実験を試み、3人とも同じ結論に達したが、より精密で正確なメンデルの研究成果を見つけ、自分たちの「発見」だと思っていた事実は「再発見」でしかないことを悟ったのだ。

メンデルの説が埋もれていたのは、発表当時の生物学会では数理統計的手法が理解されなかったり、科学者としてはド素人だった異業種の彼が学会でナメられていたのかもしれない。「再発見」とともにメンデルフィーバーが巻き起こり、彼にちなんだ「メンデリズム」などの用語が生まれた。しかし、メンデル自身はすでに墓地に埋もれていた。

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●もし生前に評価されていたら

以前から宗教的行事や決まりごとを面倒がっていたメンデルに対し、「修道士のくせに進化論を裏付けるだなんて神を否定するつもりか」と、非難轟々。居たたまれなくなってついに修道院を飛び出した彼はイギリスに渡る。教会を恐れるダーウィンに会い、賞賛を浴びまくった後、進化論反対者について一緒にグチる。帰国後は父の経営していた果樹園を研究施設に改築し、中断していた蜜蜂の交配、太陽の黒点観測を再開する。ふと「自分も妹もいくら駆けずり回っても小太り体質から逃れられないのは父からの遺伝によるものではないか」と思い立ち、やせっぽちの女性と結婚し、できるだけ多くの子供を生ませ、自らの子孫によって優性形質を確かめる。
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「いつか私の時代がきっと来る」
■プロフィール・参考文献
posted by 73 at 09:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 生前不遇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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