2005年11月01日

ジャン・ジャック・ルソー(1712-78)…スイス/思想家

<最初の不幸>

●母早死に:ルソーの場合

「私の誕生は私の最初の不幸であった」と自伝『告白』に記すとおり、ルソー誕生の9日目、彼の母は出産が原因で亡くなった。

ルソー曰く、死んだ母は「父よりも豊かであり、知識も高くて、美しかった」そうだが、彼の記述するあまりに理想的な母親像はマユツバなとこもある。これは、一見すると夢見がちな魅力に溢れているが、現実に当てはめると矛盾しがちな彼の思想のようである。

時計職人の父は、愛する妻の命と引き換えに生まれたルソーに「お母さんを帰しておくれ、この私を慰めておくれ。この心にあいた穴をうずめておくれ。お前が私の子というだけなら、こんなにかわいがるものか」なんていってたらしい。ルソーも大変だ。

伴侶を失ったショックはジワジワ父を蝕む。生活は徐々にすさんでゆき、ルソー10歳のとき、決闘沙汰がもとで、父は息子たちを残し出奔。間もなく兄も行方不明になり、一家は崩壊。孤児となったルソー、牧師に預けられた後、13歳で徒弟奉公に出される。

彼は親方の横暴と束縛から、嘘をつき、サボり、盗みを犯すようになる。ここで生じた「自然でない人為的な徒弟関係が堕落を招く」という考えは、「悪の起源は不平等。不平等から富が生まれた」とする後の『人間不平等起源論』につながる。ものは考えようである。

その後、ルソーは職を転々とし、3年半に渡る放浪生活を送る。今でいうフリーター、浮浪者だ。晩年にひきこもってもいる彼自体、社会問題の塊みたいだ。

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●人生のポイント

さて、19歳から7年間、ルソーは年金生活者ヴァラン夫人のもとに暮らす。夫人はルソーの教師となり、母親代わりになり、2年後には愛人ともなる。結局、ヒモ暮らしである。傍から見れば不自然なこの関係、母亡きルソーには自然なものらしい。

この時期以外、働き始めてからパリに移るまで、ルソーは貧しく、社会の最下層の地位にあった。30を過ぎて彼に生まれた5人の子も、貧困を理由に即、孤児院行きにした。教育書を書いてるくせにという気はするが、彼自身孤児だったんだし、妙な父に育てられるよりマシかも。

当時、フランスの学問や芸術は、貴族と富裕な上流階級に支えられていた。文字も知らぬ貧しい民衆がそれらに接する機会は、ひどく限られていた。母や愛人の影響で教養を持ち合わせたルソーも、サロンなどの閉鎖的な社交界からは下層民として冷遇され、つまみ出された。

そんなルソーが注目されたのは、懸賞論文『学問芸術論』だ。現状への不満をもとに、彼は学問や芸術自体を批判した。学問にも芸術にも通じた彼の言行不一致はその後も続き、論理に一貫性を欠くこの論文が発表されると反論ばかりが生じた。

が、論戦を重ねるうち、ルソーの思想は整理され、批判の対象が定まった。5年後、『人間不平等起源論』に進歩主義及び不平等への批判が明示された。

これらの批判は、たいていの革命の発起点である。そして、ルソーの理想はいつも夢のままだから、彼の批判は今日も通用する。

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● もし母が死ななかったら

母直伝の教養を身につけまくったルソー、牧師の孫を肩書きにサロン出入りをスタートし、「自分の属するサロンに自己をすっかり預け、個人性を放棄すれば、自己の内部分裂がなくなり幸福になる」と考えて『サロン契約論』を発表。中世以来、西洋初の同一人が作詞作曲したオペラ『村の占い師』が大成功を収めると、選民気取りで年金享受。その後ハイキングやピクニックなどを提唱し、カーテンをあしらった装飾過多なテント、バーベキューの最中に服につくニオイを消す最高級の香水、睡眠中撃たれてもかすり傷ひとつ負わない寝袋などのアウトドアグッズを販売して大もうけ。これを元手に、女中に生ませた5人の子を育てるが、どの子も本を読まない。
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2005年09月23日

ガブリエル・シャネル(1883-1971)…フランス/ファッションデザイナー

<礼拝服をスーツに>

● 母早死に:シャネルの場合

ガブリエル(ココは愛称)・シャネルが12歳の時、33歳の母は過労と結核とで亡くなった。

後年シャネルは「母が死ぬと父は仕事でアメリカに行き、私は叔母に預けられ、父からの仕送りで育てられた」と語った。が、これは真っ赤な嘘である。母の死から一週間もしないうちに、父はシャネルを姉と一緒に修道院内の孤児院に預けると「必ず迎えに来るよ」という言葉を残し、行方をくらませた。

要するに、シャネルは父に棄てられたのである。

行商人の父は、商売で街を移るたびに女を取り替えるプレイボーイだった。シャネルが生まれた時、両親2人は結婚していなかったのもそんな理由からだ。籍を入れた後も、飲酒癖、放浪癖のある父は家を留守にしがちで、母の死にも立ち会っていなかった。娘たちと離れてからも女遊びにうつつを抜かし、酒におぼれ、詐欺師まがいの暮らしを続けていた。

シャネルのほうは修道院内で、はた織や刺繍、編物などの手芸をみっちりと仕込まれた。これは、修道院のシスターたちが孤児たちを将来自立させるために教える手仕事のひとつだった。生まれつき手先が器用なシャネルは、当時の仲間たちの間でも一目置かれており、毎年夏、修道院主催のバザーが開かれると、彼女は得意の刺繍やアップリケなどを駆使し、手の込んだものを出品した。

孤児院を出た後、シャネルは修道女とはならず、無料の寄宿学校に入学した。そこには金持ちの娘が通う有料のカレッジも併設されていた。洗練された制服を着る彼女たちと、質素な服を着たシャネルたち貧乏人集団の歴然とした差を眺めながら、シャネルは着るものについての考えを固めていった。

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● 人生のポイント

今でこそ華美なイメージで見られがちなシャネルブランドだが、彼女自身が追求したのは機能的な服であり、当時としてはシンプルなものだった。

「16歳まで、私はツーピースのテーラードスーツを着ていた。私が作るシャネルスーツはそこからきている」。成功したシャネルの発言にある<テーラードスーツ>というのは、孤児院時代、日曜礼拝の際に着せられた、上下ブルーの礼拝服のこととみられる。孤児院で暮らした事実を生涯隠し通そうとしたシャネルだが、彼女の裁縫技術のみならず、美的センスの多くは、そこで育まれたものだ。

その美学は、45歳のときに建てた別荘にも現れた。完成を見た友人たちは、その厳しいたたずまいに「修道院のようだ」とコメントしたが、実際、シャネルは建築家を自分の育った孤児院に送り、参考にさせたのである。

また、常に男性との噂を絶やさなかったシャネルだが、彼女が最も愛したのは、成り上がりのイギリス人アーサー・カペルだった。カペルは、しがない銀行員の息子で、幼い頃に親を亡くした孤児だった。似通った境遇の出であることが、シャネルと彼を強く結びつけた。

オート・クチュリエとしてのシャネルのスタートは、27歳のときにカペルの出資により開いた帽子店である。さらに、彼の援助でブティックを開店し、シャネルは成功への階段を昇っていく。

その後、貴族の娘と結婚したカペルは、シャネルが36歳の時に自動車事故で亡くなるが、自分ひとりの力で連合国大評議会書記官まで叩き上げた彼の生き方は、その後もシャネルの励みとなり、「私の成功はカペルのおかげ」とまでシャネルにいわしめた。

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●もし母親が生きていたら

まずは両親を手伝って行商人となるが、やがて「ココリコ」という歌を覚え、人前で歌って稼ぐようになる。まもなく「ココ」の愛称で親しまれるようになり、ハンサムで女たらしの父、父に従順で体の弱い母、歌唱力はないが負けん気の強い看板娘ココ・シャネルの一家は、旅回りの一座としてフランス各地をまわる。ある日、旅先のカレー屋でその味に感動したココ・シャネルは「私、このお店で歌うわ」と立ち上がって「ココリコ」を歌うと、店内はやんやの大喝采。やがて、娘の収入でカレー屋を買い取った一家は、ライブを見ながらカレーを食べられるようにステージをしつらえ、店内を大改築。一家は「ココ!」「一番!」などの声援を浴びる名高いカレー屋に。
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