2005年11月15日

レーニン(1870-1924)…ロシア/革命家

<何をなすべきか>

●兄弟早死に:レーニンの場合

おとなしい兄がこっそり人殺しを考えているのに気づいたら、どんな気がするだろう? そのことが長く頭から離れなくなるんじゃないだろうか。

6人のうち5人が革命家になったレーニン兄弟のうち、ペテルブルク大学理学部に在学していた長男アレクサンドルは別だった。成績優秀だった彼は、繊細な感受性をもち、内向的で、学究肌の(オタクの人をホメるときに使われがちな形容ばかりだ)青年だった。

レーニンが17歳のとき、21歳の彼は、ナロードニキ思想に傾倒していた。この思想は派閥も多く、考え方には色々あるが、基本的には「一挙に社会主義に進め!」というもの。

ナロードニキ思想家たちは、すでに皇帝アレクサンドル2世の暗殺に成功していたが、政治的自由を勝ち取るという目的はまったく果たせなかった。トップが消されたところで支える者の思想が変わらなければ、首の挿げ替わるだけなのである。要するに、ナロードニキ思想というのはあんまりうまくいってなかった。

が、レーニンの兄はすでに失敗したのと同じ方法を試みようとした。彼は1887年、皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加し、逮捕された。2世が殺されてから6年後である。

皇帝と同じ名をもつ責任感の強い兄は、裁判で同志の罪をすべて自分で引き受けようとし、結局死刑になる。これは、後に世界で初めての社会主義国家を設立するレーニンが、初めて帝政ロシアの国家権力を知る、またとない機会となった。

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●人生のポイント

品行方正でツルゲーネフに読みふけっていたレーニンは、性格の合わない長男とあまり打ち解けなかった。兄アレクサンドルは暗殺計画のことだけでなく、自分がマルクスの著書を読んでることも弟レーニンに黙っていた。

何でも話せる仲だったなら、兄の死をすぐ納得し、思考停止状態でひたすら兄に傾倒したかもしれない。が、レーニンは冷静に兄の死を考え続けた。

大学で学生運動に加わったレーニンは、逮捕され退学処分となる。謹慎期間中、亡き兄の愛読書であった『何をなすべきか』を熟読した。質素な生活をし、拷問にも耐えられるよう精神と肉体を鍛える青年を讃えたこの小説を、レーニンは「この本は私をすっかり深く掘り返した」と語った。

翌年大学に戻ったレーニンは、マルクス主義的サークルに参加し、革命家の道を志す。やがて兄の失敗を糧に、『人民の友とは何か』などの論文でナロードニキ思想の批判を始める(後にナロードニキは1890年代のマルクス主義者が「古い!」と拒絶した過去の革命思想全体を指すようになる)。

1902年、レーニンは自らの革命思想を『何をなすべきか』と題して発表する。労働者階級が歴史的使命を果たすためには、自己認識、自己反省、理論が大事であり、社会の全人民への抑圧を自分の問題として闘う必要があることを主張した本である。手段として不適当な暗殺を試み、人生にも革命にも失敗した亡き兄が読んでいたらどんなによかったろう、というような内容だ。

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●もし兄が生きていたら

ツルゲーネフに傾倒したレーニン、尊敬する小説家と無口な兄が通ったペテルブルグ大学に入学し、観念論哲学を身につける。小説『余計者の友とは何か』により、何に対しても批判的で冷笑的な態度をとる口先だけの理想主義者には友達が少ないことを描いて頭角を表し、農民による革命への迷いを表現した短編集『貧農に、訴える?』『猟人日記をなすべきか?』で文壇的地位を確立。これらの作品が政府に目をつけられ地下に潜伏すると、観念の世代と資本主義を批判、行動の世代と共産主義がロシアの改革には必要であることを小説『父と子と国家と革命』や自伝的作品『初恋の最高の段階としてのその前夜』により示し、日和見主義者を戸惑わせる。
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2005年11月08日

田中正造(1841-1913)…日本/足尾銅山鉱毒反対運動の指導者

<天は助けず>

●逮捕・有罪:田中の場合

直訴までして足尾銅山鉱毒事件と闘ったことで知られる田中正造は、逮捕と入獄を度々経験している。28歳で入獄11か月、31歳 で2年9 か月、44歳で3か月、62歳で41日間。

最初の入獄は役人や領主の不正を指摘したのが原因だ。田中が明治維新を迎えたのはこの収監中だが、江戸が明治になっても、政府に楯突く人間には、不当な逮捕が繰り返された。2度目の逮捕は圧政に反対したためで、その次 は上役暗殺を疑われて投獄(後に冤罪確定) 。最後の投獄は川俣事件(足 尾銅山被害者の大挙上京請願運動が大弾圧を受けた事件)の裁判中、誠意のない検事に抗議を示すアクビが官吏侮辱罪となったためだ。

3度目の獄中で、田中はスマイルズの世界的ベストセラー『西国立志編』( 『自助論』)を読む。「天は自ら助くるものを助く」で知られるこの書は「勤勉、忍耐、節約などの美徳で人生を切り拓くことができる」という自己啓発書。要するに「マジメに頑張ってりゃ成果がありますよ」というもの。

スマイルズの思想に影響された田中は、彼の書にあるとおり、普遍的な人間道徳に基盤をおいた。そして彼は、法のための法でなく、人類の良心を憲法だと考え、そこに政治規範を求めた。

ただし、『西国立志編』の評価は下がっている。このテの本がありがちになったうえ、「マジメに頑張っても成果があるとは限らない」ことが判明してきたからだろう。残念ながら、田中はその好例となった。

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●人生のポイント

大アクビで捕らえられた最後の入獄時、田中は差し入れの聖書を読んだ。「聖書を読むよりはまず聖書を実践せよ」と日記に記し、一時は改宗をも考えるほどキリスト教への信仰心を強めた。獄中というのは感化されやすい空間なのかもしれないし、人道を身につけるには世間より適切な場所なのかもしれない。

ただし、田中は単なる「神頼み」としてのみでなく、信仰心が味方になると考えてもいたようだ。鉱毒調査を行った内村鑑三らをはじめとして、支援者にはキリシタンが多く、田中が彼らと交わる機会は頻繁だった。毎号のように谷中村問題を取り上げるキリスト教系の雑誌もあった。

が、足尾銅山鉱毒反対運動は、無残な失敗に終わった。

議員を辞し、命賭けで行った田中の直訴に世論は沸いた。支援活動も活発化したが、間もなく世間の関心は日露戦争に持っていかれた。住居の強制破壊までやって立ち退きを促す政府に対し、田中は残留民とともに谷中村に小屋を建て、汚染地帯に住み込むが、それまでの味方は次々と田中を裏切った。

絶命した田中の枕元に遺されたのは、綴じ合わせられた帝国憲法と聖書だった。憲法と聖書だなんて水と油みたいだけど、晩年の彼にとっては、いずれも戦いの武器であり、道徳的精神のよりどころだった。死の半年前、彼は残留民たちに「神は谷中にあり」と手紙を書き送ったが、田中の死後、残留民は毒浸しの故郷を逃れる他、何ひとつ手がなかった。神は毒死した。

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●もし逮捕されなかったら

幸徳秋水や『毎日新聞』主筆に直訴を提案された田中、「エーッ、だって江戸時代そのやり方やった人って家族ごと処刑されたんでしょ? 名主生まれの俺が警察沙汰になんかなっちゃったらみっともなーい」と思いつつ、おそるおそる直訴煽動ビラを作成。狙い通りとまでは行かなくとも足尾銅山反対運動は激化し、鉱毒被害者たちは大勢逮捕され強行に家宅捜索される。と、自分たちは「野心家の田中正造が手を汚さないで名声を得るための道具にされた」の流言に引きずられ、被害者たちの間で内ゲバの嵐、鉱毒反対の運動団体は雲散霧消。尊敬し続けた大隈重信に「鉱業は停止すべきでない」と諭され、田中も「彼がいうんならそうかもな」なんて考え始める。
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2005年11月01日

ジャン・ジャック・ルソー(1712-78)…スイス/思想家

<最初の不幸>

●母早死に:ルソーの場合

「私の誕生は私の最初の不幸であった」と自伝『告白』に記すとおり、ルソー誕生の9日目、彼の母は出産が原因で亡くなった。

ルソー曰く、死んだ母は「父よりも豊かであり、知識も高くて、美しかった」そうだが、彼の記述するあまりに理想的な母親像はマユツバなとこもある。これは、一見すると夢見がちな魅力に溢れているが、現実に当てはめると矛盾しがちな彼の思想のようである。

時計職人の父は、愛する妻の命と引き換えに生まれたルソーに「お母さんを帰しておくれ、この私を慰めておくれ。この心にあいた穴をうずめておくれ。お前が私の子というだけなら、こんなにかわいがるものか」なんていってたらしい。ルソーも大変だ。

伴侶を失ったショックはジワジワ父を蝕む。生活は徐々にすさんでゆき、ルソー10歳のとき、決闘沙汰がもとで、父は息子たちを残し出奔。間もなく兄も行方不明になり、一家は崩壊。孤児となったルソー、牧師に預けられた後、13歳で徒弟奉公に出される。

彼は親方の横暴と束縛から、嘘をつき、サボり、盗みを犯すようになる。ここで生じた「自然でない人為的な徒弟関係が堕落を招く」という考えは、「悪の起源は不平等。不平等から富が生まれた」とする後の『人間不平等起源論』につながる。ものは考えようである。

その後、ルソーは職を転々とし、3年半に渡る放浪生活を送る。今でいうフリーター、浮浪者だ。晩年にひきこもってもいる彼自体、社会問題の塊みたいだ。

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●人生のポイント

さて、19歳から7年間、ルソーは年金生活者ヴァラン夫人のもとに暮らす。夫人はルソーの教師となり、母親代わりになり、2年後には愛人ともなる。結局、ヒモ暮らしである。傍から見れば不自然なこの関係、母亡きルソーには自然なものらしい。

この時期以外、働き始めてからパリに移るまで、ルソーは貧しく、社会の最下層の地位にあった。30を過ぎて彼に生まれた5人の子も、貧困を理由に即、孤児院行きにした。教育書を書いてるくせにという気はするが、彼自身孤児だったんだし、妙な父に育てられるよりマシかも。

当時、フランスの学問や芸術は、貴族と富裕な上流階級に支えられていた。文字も知らぬ貧しい民衆がそれらに接する機会は、ひどく限られていた。母や愛人の影響で教養を持ち合わせたルソーも、サロンなどの閉鎖的な社交界からは下層民として冷遇され、つまみ出された。

そんなルソーが注目されたのは、懸賞論文『学問芸術論』だ。現状への不満をもとに、彼は学問や芸術自体を批判した。学問にも芸術にも通じた彼の言行不一致はその後も続き、論理に一貫性を欠くこの論文が発表されると反論ばかりが生じた。

が、論戦を重ねるうち、ルソーの思想は整理され、批判の対象が定まった。5年後、『人間不平等起源論』に進歩主義及び不平等への批判が明示された。

これらの批判は、たいていの革命の発起点である。そして、ルソーの理想はいつも夢のままだから、彼の批判は今日も通用する。

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● もし母が死ななかったら

母直伝の教養を身につけまくったルソー、牧師の孫を肩書きにサロン出入りをスタートし、「自分の属するサロンに自己をすっかり預け、個人性を放棄すれば、自己の内部分裂がなくなり幸福になる」と考えて『サロン契約論』を発表。中世以来、西洋初の同一人が作詞作曲したオペラ『村の占い師』が大成功を収めると、選民気取りで年金享受。その後ハイキングやピクニックなどを提唱し、カーテンをあしらった装飾過多なテント、バーベキューの最中に服につくニオイを消す最高級の香水、睡眠中撃たれてもかすり傷ひとつ負わない寝袋などのアウトドアグッズを販売して大もうけ。これを元手に、女中に生ませた5人の子を育てるが、どの子も本を読まない。
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2005年10月25日

ジョン・スチュアート・ミル(1806‐73)…イギリス/哲学者、経済学者

<英才教育とその功罪>

●学歴なし:ミルの場合

狼に育てられた少女がどうなるか気になるなら、『自由論』の著者ミルのこともちょっと気にしておきたい。功利主義者の父による徹底した英才教育によって成長した彼は、学校教育をまったく受けなかったのだから。

ベンサムやリカードを友に持つ父は、ミルに3歳からギリシア語を教え、8歳までに『ソクラテス追想録』やプラトンの『対話篇』なんてのを読ませ、ラテン語を学ばせた後、13歳のときに経済学の課程を終えさせて、リカードの『経済学及び課税の原理』を読ませた。こんな教育受けたガキに間違ってお年玉なんて渡したら、「こいつ俺のこと利用しようとしてんじゃないだろうな」などと勘ぐられそうだ。

父子とも大学教育をバカにしていたので、ミルは大学へ行く年になると父の働く東インド会社に勤めた。インド人もビックリしたかは分からないが、10代ですでに論客となった彼が教養の面で比類なく恵まれたことは確かだ。後に彼自身、自分は父からの訓育のおかげで、同年輩の人々より4分の1世紀早くスタートできた、としている。

ただしミルは「私の教育の主な欠陥は、子供たちが親からほうり出されて何とか自分でやってゆかされるとか、集団の中に放りこまれるとかいうことから得られるものを受けなかったことである」と記し、「日常の問題になると、私の散漫、不注意、だらしなさは、年中叱責に値した」という。彼みたいな教育受けなくてもそういう人はいっぱいいるんだけど……。

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● 人生のポイント

さて、早期教育が蔓延する今の時代、ミルと同じ程度にとはいわないまでも、何らかのジャンルで多かれ少なかれ「英才教育のようなものを受けた」覚えがあるという人は多いだろう。英才教育がミルのような人物を産むのだとすれば、第二、第三のミルが続々と生まれないのは、なぜか。

ミルが受けたのは、記憶第一の詰め込み式教育ではなかった。息子が不用意に「観念」だの「理論」だのといった言葉を使うと、それはどういうことかと追求し、天才少年の無知を暴露してヘドモドさせ、失敗を自覚させた。彼の父は、息子に自分自身の言葉で語ることを求め、理解力、思考力を鍛えたのである。

やがてミルは、絶対の真理だと思い込んでいたベンサム主義に疑問を抱き、重い欝状態になる。その後、まずベンサムが死に、そして父が死ぬと、ミルは猛然とベンサムを批判する。さらに後、今度は「批判しすぎた」と思い直して、いったんは遠ざけたベンサム功利主義の肩を持つ。

ミルが意見を変えるたびに、彼に賛成する者は「裏切られた」と感じた。が、一見、無節操で軽薄なミルの誠実さは「満足した豚よりも満足しない人間である方がよく、満足した愚者であるよりも満足しないソクラテスである方がよい」という彼の言葉に現れている。彼は常に疑問と不満を抱えつつ、体面より改善を追究した。先人の言葉をただ鵜呑みにしているばかりでは、世界も自分も変わらないのである。

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● もし学歴があれば

学校生活中、自分の知識が同級生たちと比べてかけ離れたものであることを知り、ミルは自分の秀才ぶりに開眼。ずば抜けたその知識に全校生徒が脱帽し、彼の説くベンサム主義が校内を席巻。「最大多数の最大幸福」をスローガンに、多数決で決定した1人が他の全員の宿題をやる、1人のパシリが他の全員のためにお昼のパンと飲み物を買ってくる、といったシステムが横行、イジメ問題に発展。落ちこんだミル、俗人との交際を絶って人妻との道ならぬ恋に生きる。と、周囲の誰もが彼を真似たため、大学生の間で不倫ブーム。家事にも恋にも忙しくなり始めた世の主婦に向け、「子売り主義論」を書き上げた後、高利貸しとなり今度は「高利主義論」を完成。
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2005年10月18日

アンネ・フランク(1929‐45)…ドイツ/ユダヤ系実業家の娘

<永遠に「幼い少女」>

●夭折:アンネの場合

ブログなどで日記を書いてて、ふと、「自分が死んだらこの日記どうなるんだろう?」と考える。で、「今は自分の日記なんて誰も読んでくれないけど、自分の死後『アンネの日記』のようにクローズアップされて、大フィーバーを巻き起こしちゃったりなんかして」なんて考えてしまう……そんな人がいっぱいいる以上、やはりアンネはただの女の子でなく「偉人」である。

アンネはドイツのフランクフルトに生まれ、5歳でアムステルダムに移住した。オランダをドイツが占領すると、アンネ一家はユダヤ人の強制移送を恐れて、1942年の夏から民家の屋根裏に隠れ住んだ。この時点でアンネの寿命はあと3年、である。

44年8月、一家は逮捕され収容所に送られ翌年2月、アンネと姉は発疹チフスにかかり、ブツブツだらけになった。まず、姉が衰弱して死に、アンネの気力はすっかりくじけた。姉の遺体が運ばれるのを見た彼女は、ベッドで「お父さんもお母さんも、もう死んでいるに違いないし、これで私は家へ帰る目的がなくなった」とつぶやき、3日後に息を引き取った。16歳だった。

実際は、父は生きていた。終戦後、隠れ家での生活を綴った日記により「何とかして有名になりたい」「死後も生き続けて人の役に立ちたい」という亡きアンネの願いを知った父は、この日記を刊行まで漕ぎ着けた。こういう父を持つ人は少ないだろうが、彼女と同じ志を持ちつつ日記を書いてる人なら、今の世にもゴロゴロいるだろう。

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●人生のポイント

アンネより勇敢にナチスと戦った人はもちろん、彼女よりひどい思いをした人は山のようにいた。だのに日記が遺されてたくらいでなぜ、彼女だけがマクドナルドとかコカコーラ並みの知名度を持つようになったのか? 「日記だけならワナビーアンネ」な人なら、ぜひ押さえておこう。

まず、日記が1944年8月1日で終わっているところが重要だ。記された不幸さがいくらひどいとはいえ、さらにひどい収容所のことは書かれず「これはちょっと子供には見せられない」というほどのグロテスクさはない。「ほどほど」に留まっているのだ。で、日記の後、確実にもっと不幸になってる事実が、読む者の想像力を刺激する。

弱さというのも、時にとてつもない武器となる。強靭な中年男性が同情を集めながら万人から愛されるのは難しい。第二次性徴では女の方がデカい体、という事実はこの際どうでもよく、大事なのは「少女=か弱い」というイメージだ。幼い少女というイメージは、最終的に全員が同情を抱かざるを得ないよう仕組まれたかのように申し分ない。

これに加え、アンネが幼くして死んだというのがミソだ。生きる少女は老婆になるが、死んだ少女は永遠に少女のままである。

所詮、人は皆死ぬ。地球だって最後には終わる。突き詰めればすべてが虚しい世界の中で、たいていの読者より短く救いのない人生。その断片が記された『アンネの日記』は、矛盾に満ちた人生を癒し、死後の夢を読者に与える。

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●もし長生きしていたら

若い頃に記した日記を戦後書き足したアンネがこれを出版社に持ち込むと「何、このおめでたい文体は?」と、前半部分の多くが削除されて発刊。ナチスVSユダヤネタの出版ラッシュに埋もれて注目を浴びない自著を片手に、戦争被害者としての体験を広める慈善活動家に。「えっ? またユダヤネタ? もう飽きたのに〜」と内心思いながらも口に出せない大衆を相手に講演を重ねるうち、相手に楽しんで話を聞いてもらわねばと手品とジャズと漫談の才能を身に付け、ユダヤネタを織り込んだコメディ映画を撮影。21世紀になってからキティというブログに記される『アンネの孫日記』が話題に。
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