2005年10月11日

アンデルセン(1805‐75)…デンマーク/童話作家

<童話のメリット>

●家族の病:アンデルセンの場合

頭がおかしくなった本人は、自分が精神を病んでいることを気づかずにいられる。

が、頭のおかしくなった者と血を分けた家族は、その者の世話をせねばならない。そのうえ、自分が正常かそうでないかを疑いがちになり、仮に正常だという自信をもてたとしても、いつかおかしくなってしまうのではないかという不安を抱え続けることになる。

アンデルセンの祖父は、精神を病んでいた。彼は奇妙な人形や玩具を作っては、乞食のような格好でそれを持って回り、近所の子供たちから気味悪がられ、バカにされた。幼いアンデルセンは学校の上級生に「この子は、おじいさんと同じに、気が変なんだわ」といわれたことがきっかけで、友人たちから離れた。

祖母は「私は貴族の血を引いている」と語った。彼女にひどくかわいがられたアンデルセンは、この話を間に受け、自伝にもその通りに記した。が、彼女は病的な虚言癖の持ち主で、そんな事実はまったくなかった。

アンデルセンの父親は靴職人だったが、職人階級にしてはかなりの読書家で、教養人だった。息子にもたくさんの物語を読み聞かせた。が、ナポレオンを崇拝して軍隊に志願し、敗北後帰国すると、精神錯乱に陥り、2年ほどで死んでしまった。無教養で信心深い母は、息子が成人する頃アルコール中毒になり、数年後には慈善病院で生涯を終えた。

アンデルセンは、彼らと同じように自分は狂死するのではないかという其怖を絶えず感じ続けた。この環境なら、そう感じるのが普通だろう。

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●人生のポイント

アンデルセンは童話によってキチガイだらけの家族を消化するという、離れ技をやってのけた。

貧しく不遇な家族に生まれ、詩人として大成した自分を、アヒルの巣に生みおとされた美しい白鳥に例えたのが『みにくいアヒルの子』だ。家族の中でひとり幸せをつかんだ自分を「こんな家族に生まれたからといって不幸な運命を背負った人間ではないのだ」と、自己肯定しているかのようだ。

息子以上に貧しかった母親の悲劇的な人生も、彼は同情と美に転化した。童話に消化した。『マッチ売りの少女』は、貧しい少女が、美しい炎に浮かび上がった亡き祖母の腕に抱かれ、神に召され死んでゆくという、救いようのない結末だ。これは幼い頃に乞食をやらされ、橋の下で泣いていた母の実話をもとにしたものだ。

事実ほど救いようのないものはない。文盲の母は、結婚前に騙されて行商人の子を産んでいた。2度目の夫に死なれた後も、彼女は冷たい水の中で1日洗濯をして生計を立てた。リューマチの痛みと孤独、そして水の冷たさを紛らわせるため酒に溺れ、彼女は正常な意識を失っていった。

童話『あの女はろくでなし』は、貧しい洗濯女が上流階級の金持ちから、酒飲みのろくでなし、と罵られる話だ。この題材をアンデルセンは「母の友達」から、としている。が、自分の母を書いているようにしか見えない。

事実を認めたら精神の安定を保てないときは、こんなやり方もあり得る、かも。

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● もし健全な家族だったら

やたらと器用なアンデルセン、親の後を継ぐ靴屋の見習仕事のみならず、特技の切り絵や花束を作り、歌を歌っては友達を増やし、近所の人気者に。貧しいながらも幸せな一家を誇りにし、池を泳ぐアヒルの家族を見れば、自分の家族のようだとニコニコ満足。アヒルの尾の巻毛を花嫁の靴の中に入れておくと亭主関白になれるという伝説を信用し、巻き毛を大量に集めた後、健全な子孫が生まれるであろう自信を持って思いを寄せた相手にアプローチ。が、失恋し、その後は中途半端な創・性を発揮して『金魚姫』『ステテコ姿の王様』『憎いアヒルの子』などの童話を創作、二流作家として村のちょっとした有名人に。
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2005年10月04日

リヒャルト・ワーグナー(1813-83)…ドイツ/作曲家

<多才?>

●亡命:ワーグナーの場合

内容より音楽重視なオペラを否定し、独自の理論に基づく「楽劇」なるものを産んだワーグナー。彼は作曲家のくせに、ドレスデン革命で大奮闘した。

彼の活躍は、革命参加を促すビラの制作・配布、手榴弾製作工場での労働、王政主義者側の動向視察(といっても実際は教会の塔での見張り)etc…幸か不幸か、人を操る曲ベストテンとかやったら必ずランクインするであろう自分の曲を革命には利用しなかった。

彼の革命熱は、社会主義的な思想以上に、実生活の不満から生じていた。当時宮廷劇場の指揮者だった彼は、給与の増額を要求し、拒絶された。その頃、議会に宮廷劇場への補助金停止が提案されたのだ。

官憲や支配階級の芸術に対する無理解に腹を立てたワーグナーは、芸術を暇つぶしの娯楽としか考えない有産階級、芸術を鑑賞する時間的経済的余裕のない無産労働階級、いずれも問題視した。で、「現状を変え『人間社会の芸術的秩序』を完成させるには、革命!」と考える。人間社会の芸術的秩序……具体的にはよくわからないが、魅力的な響きだ。

が、革命は失敗に終わった。

共和党でも民主党でもないのに派手に動いた彼は、首謀グループの一員と見なされ、「国家反逆罪」の逮捕令状が出る。が、大金や偽の旅券を手配し、辛くも逃亡した彼、スイスで11年間の亡命生活に。

ちなみに彼と同時期の令状で逮捕された者は、ほぼ皆死刑。惜しい、ここで奴が死んでたら……ってユダヤ人も多いだろう。

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●人生のポイント

この亡命がワーグナーを西洋音楽至上、比類ない存在に押しやった。

亡命中に記した芸術論により打ち立てた「総合芸術」理論に基づき、彼は「楽劇」(彼自身はこの名を嫌がったが、一般的な定義は「ワーグナーとその後継者の作品」)を構想した。この「楽劇」は音楽という一要素を最優先させるのでなく、劇自体が究極の表現目的となるよう、音楽、文学、舞踊、絵画、建築などあらゆる芸術が統一、融合すべきだとした。

「楽劇」実現のため、作曲専業の世界に、彼は映画監督的手法を持ち込んだ。自作の台本を自ら執筆し、演技や衣装の指導、劇場建築すべてに指示を出し、「総合芸術」理論に基づいて『ニーベルングの指輪』が完成した。12時間を4晩で演じるこの大作の規模は未だに超えられていない。

随筆「音楽におけるユダヤ性」も、亡命中に発表されたものだ。ワーグナーが「自分が嫌いな人を誰でもユダヤ人とした」といわれるほど支離滅裂な反ユダヤ思想を語るこの文章も、彼の曲も、後にヒトラーが寵愛。ナチスが彼の曲を党歌代わりに扱う最大の理由となる。

なお、ワーグナーの父親がユダヤ人である可能性はわりと高く、彼のユダヤ人への反発はかなり個人的な事情による。彼は当時、ユダヤ系作曲家と敵対し、ユダヤ人の高利貸しから借金の取立てに苦しめられていた。おそらくはそんなバカバカしい理由が発端で、現在もイスラエルで彼の「楽劇」を上演するのはとっても難しい。

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●もし亡命していなければ

依頼もないのにビスマルクを讃え『皇帝行進曲』を作曲した際、身元が割れ、「社会主義者が宰相をナメた曲」と楽譜は焚書扱い、逮捕令状再発行。窮地に陥るワーグナー、ルードウィッヒ国王により救出され、インテリア凝りまくりの超贅沢な隠れ屋生活。謎に包まれた作曲家と国王との怪しい関係は風刺画にされ、やおい本の草分けに。その後も匿名で作曲&脚本執筆を続けるが、作者不明のド派手な舞台を観た者は、曲と台本を同じ人間が作ったと気づかぬまま「長すぎ」「金かけすぎ」「死を美化しすぎ」「古い神話を蒸し返した小難しいストーリーで曲が台無し」などと噂する。哲学界では「完璧!」「台本は見事、曲は不要」その他、評は分裂。
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2005年09月30日

パブロ・ピカソ(1881-1973)…スペイン/画家

<女、女、女>

●不倫:ピカソの場合

ピカソの絵のモデルになりたいなんて勇気のある女がよくいるものだ。彼女たちの写真が残っていなかったら、どんな奇怪な風貌の人物と思われても仕方ない。

そりゃ、最初の妻、オルガのようにまともに描かれる可能性だってある。が、『フェルナンドの顔』を見た後世の人々は、本当にこのモデルは人間だったのかどうかというところから話を始めなくてはいけなくなるだろう。小顔とほっそりしたスタイルが魅力的なはずの『マリー・テレーズ』は、実物とは似ても似つかない妖怪……青緑の肌とオレンジの爪を持った全身福笑いとなって描かれている。

そのマリーと取っ組み合いのケンカをしたドラ・マールがモデルの『泣く女』なんて、いったい何の恨みがあればこんなひどい描き方ができるのか? と思われるほど恐ろしい醜さだ。写真のドラはエキゾチックな美人なんだけど、絵のほうが有名になってしまった以上、『ゲルニカ』の製作過程を撮影した彼女も、末代まで子供たちに笑われ続けるだろう。

ピカソは言った。「私にとってドラは、常に泣く女だった。だから彼女を泣く女として描いたのだ」そしてさらに、こう付け加えている。「女性は苦しむ機械だ。私は本質を捉えたわけだ」

確かにピカソは女泣かせな男だ。女を苦しめることも平気だった。(自分についても相手についても)配偶者の有無に関わらず、常に女をとっかえひっかえする彼の生き方は、彼の絵と同じくあまりに自由で、どうかしていた。

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●人生のポイント

彼が不倫したことより、なぜ結婚したかのほうが謎なんだけど、その理由はピカソが生涯最期に発したこの一語にあるのだろう。

「女って、いいもんだよ」

ピカソは交際相手を変えるたび、画風や題材を変えた。「概していえることは、妻や愛人が変われば、彼の芸術にも変化が起こるということです」というドラの言葉どおり、女性との関係が「変貌する画家」ピカソを作った。

例えば、彼が売れっ子画家となったのは、暗い「青の時代」が終わり、「薔薇色の時代」と呼ばれる明るい色調の作風に変わってからだ。これは売春婦との交渉をやめたピカソが、オリヴィエとの同棲生活を始めたことによる。ピカソに芸術家たちとの交友関係を築いたエヴァは社交家で、彼をキュビズムに導いた。古典主義への回帰を生じさせたのは、最初の妻オルガとの出会いからだった。ピカソをふった女フランソワーズはピカソが陶芸に専念できるよう、工房をしつらえた。

ただし、ピカソと深く関わった女性たちが、幸せだったとは限らない。オルガやドラは精神を病んだ。2度目の妻ジャクリーヌはピカソが死ぬと、ピストルで自分の頭を打ち抜いた。孫のひとりはピカソが死んで3ヵ月後に漂白剤を飲んで自殺した。ピカソの娘マヤを生んだマリー・テレーズは4年後にガレージの中で首を吊った。

そんな話を聞いたところで、それだけ「ピカソって、いいもんだったんだろう」という気にさせられてしまうのが、彼の怖いとこである。

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● もし不倫しなかったら

はじめのうちは、若い女やらオールド・ミスやらを追いかけまくり、生理中の女性を描いた『青の日』、女性の首だけを題材にしたシリーズ『首ズム』で注目を集める。しばらくは女を変えるたびに画風を変えてゆくが、結婚した後は、同じ作風をしばらく維持しつつ、自分の妻を追求。妊娠し、年老いていく女性の微妙な変化を抽象的かつ過剰に描き賞賛を浴びる。が、娘が生まれるたびにそっちに関心が移り、成長を追うようになる。蚊に刺された長女を描いた『掻く女』、腹痛を訴える次女を描いた『下痢か?』などは彼の代表作に。やがて、自分の顔を怪物のように描かれた三女が失踪、ケダモノのように描かれた四女は引きこもりに。
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2005年09月27日

スタンダール(1783‐1842)…フランス/作家

<数多く緻密な遺書>

●生前不遇:スタンダールの場合

失恋ばかりをやたらと繰り返し、一度も結婚していない男の書いた『恋愛論』を、誰が読みたがるだろう。他人の意見の無断盗用を繰り返し、それを批判されても繰り返す男を、誰が信用するだろう。

スタンダールとは、そういう男だった。そして生きていた頃の彼は、無名だった。

37歳の時に書き上げた『恋愛論』の場合、出版当初、売れたのは22冊。小学生の卒業文集だって、もうちょっと出回るのが普通だ。その後2年経っても、40冊も売れなかった。今や世界各国で読まれまくっている代表作『赤と黒』は47歳の時に出版されたが、死ぬまで再販されなかった(発行した部数より売れた数のほうが少なかった)。

あと4年で寿命という55歳の冬、体が思うように動かせなくなった彼は、口述筆記によりわずか53日で小説『バルムの僧院』を仕上げた。出版の翌年、この作品は偉大なるバルザックに「世紀の傑作」と、大絶賛される。

が、バルザックの手がけた数々の事業同様、この激賞は何の好ましい反響も生まなかった。出版時、わずか13冊が売れたのみで、スタンダールは世間から黙殺され続けた。

1841年、死の1年前。すでに出版された『バルムの僧院』1ページ目に、彼はこう書き付けた。「女を3人手に入れるのと、この小説を書き上げたのと、お前にはどちらがマシだったか?」

どちらがマシ、かは謎である。ただ、彼が「『バルムの僧院』を書く労力を他にまわせば女が3人手に入るようなモテモテ人間」ではなかったことは確かだ。

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●人生のポイント

スタンダールの遺書の数は、彼の遺した作品の数よりはるかに多かった。

若い頃から精神の安定を欠くことの多かった彼は、度々死を想った。彼は世間からだけでなく、愛する女性にも拒絶され、時には自殺を考えた。22歳のときはそのための毒薬を友人に頼み、死を目前にした1840年には、自らを撃つための銃を買い求めている。

彼は20代の終わりから、何度となく遺書を書くようになった。1828年だけで4通、1835年には10回以上それを記した。

遺書だけあって、書面には様々な指示が盛り込まれた。死後出版の依頼、財産贈与、墓地の希望、原稿の遺贈。

時々、死者の言葉は生きている者より力を持つ。

別に幽霊なんか信じてなくても、死んだ人からの頼み事というのは、無視しづらいものである。死後、彼の原稿の多くが日の目を見たのは、遺書により依頼を受けた者たちの責任感によるところが大きい。

とはいえ、スタンダールにも自信があったのだろう。59歳まで生きた彼が墓碑銘「生きた、書いた、愛した」を選んだのは、『恋愛論』を書き上げた年、37歳の時だった。「結局のところ、生きる価値なんてあるのかね?」「私は自分の書いたものを読ませる何らかの才能があるという確信はまったく持てない」などと記しつつも、彼は自分を認めてくれるバルザックへの手紙に本音をのぞかせている。

「白状しますが、私は1880年には少しは有名になるだろう自恃の念を持っているのです」

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●もし生前に評価されていたら

突然受験放棄し決闘騒ぎを起こし女からフラれまくる「まずい顔立ち」のドジ男が書いた『恋愛論』がコメディ本と勘違いされて大人気。これを恥じたスタンダールが遺書ばかり書いているのに気づき、編集者が週刊誌にそれを無断連載。怒った彼だが、すでに発表した彼の美術論や伝記に剽窃が多数見出されることを各方面から指摘され、結局沈黙を決め込む。連載が単行本化されると、「コメディ作家が書いた『遺書』」と見なされ大ウケ。こっそり書き溜めていた彼の自伝も無断で出版されると、「滅茶苦茶な構成」「文中に悪筆や作品自体の弁明を入れる手法」「走り書きのいい加減な作図など、細かい部分の不正確さ」が新鮮、と、妙な礼賛がまき起こる。
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2005年09月23日

ガブリエル・シャネル(1883-1971)…フランス/ファッションデザイナー

<礼拝服をスーツに>

● 母早死に:シャネルの場合

ガブリエル(ココは愛称)・シャネルが12歳の時、33歳の母は過労と結核とで亡くなった。

後年シャネルは「母が死ぬと父は仕事でアメリカに行き、私は叔母に預けられ、父からの仕送りで育てられた」と語った。が、これは真っ赤な嘘である。母の死から一週間もしないうちに、父はシャネルを姉と一緒に修道院内の孤児院に預けると「必ず迎えに来るよ」という言葉を残し、行方をくらませた。

要するに、シャネルは父に棄てられたのである。

行商人の父は、商売で街を移るたびに女を取り替えるプレイボーイだった。シャネルが生まれた時、両親2人は結婚していなかったのもそんな理由からだ。籍を入れた後も、飲酒癖、放浪癖のある父は家を留守にしがちで、母の死にも立ち会っていなかった。娘たちと離れてからも女遊びにうつつを抜かし、酒におぼれ、詐欺師まがいの暮らしを続けていた。

シャネルのほうは修道院内で、はた織や刺繍、編物などの手芸をみっちりと仕込まれた。これは、修道院のシスターたちが孤児たちを将来自立させるために教える手仕事のひとつだった。生まれつき手先が器用なシャネルは、当時の仲間たちの間でも一目置かれており、毎年夏、修道院主催のバザーが開かれると、彼女は得意の刺繍やアップリケなどを駆使し、手の込んだものを出品した。

孤児院を出た後、シャネルは修道女とはならず、無料の寄宿学校に入学した。そこには金持ちの娘が通う有料のカレッジも併設されていた。洗練された制服を着る彼女たちと、質素な服を着たシャネルたち貧乏人集団の歴然とした差を眺めながら、シャネルは着るものについての考えを固めていった。

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● 人生のポイント

今でこそ華美なイメージで見られがちなシャネルブランドだが、彼女自身が追求したのは機能的な服であり、当時としてはシンプルなものだった。

「16歳まで、私はツーピースのテーラードスーツを着ていた。私が作るシャネルスーツはそこからきている」。成功したシャネルの発言にある<テーラードスーツ>というのは、孤児院時代、日曜礼拝の際に着せられた、上下ブルーの礼拝服のこととみられる。孤児院で暮らした事実を生涯隠し通そうとしたシャネルだが、彼女の裁縫技術のみならず、美的センスの多くは、そこで育まれたものだ。

その美学は、45歳のときに建てた別荘にも現れた。完成を見た友人たちは、その厳しいたたずまいに「修道院のようだ」とコメントしたが、実際、シャネルは建築家を自分の育った孤児院に送り、参考にさせたのである。

また、常に男性との噂を絶やさなかったシャネルだが、彼女が最も愛したのは、成り上がりのイギリス人アーサー・カペルだった。カペルは、しがない銀行員の息子で、幼い頃に親を亡くした孤児だった。似通った境遇の出であることが、シャネルと彼を強く結びつけた。

オート・クチュリエとしてのシャネルのスタートは、27歳のときにカペルの出資により開いた帽子店である。さらに、彼の援助でブティックを開店し、シャネルは成功への階段を昇っていく。

その後、貴族の娘と結婚したカペルは、シャネルが36歳の時に自動車事故で亡くなるが、自分ひとりの力で連合国大評議会書記官まで叩き上げた彼の生き方は、その後もシャネルの励みとなり、「私の成功はカペルのおかげ」とまでシャネルにいわしめた。

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●もし母親が生きていたら

まずは両親を手伝って行商人となるが、やがて「ココリコ」という歌を覚え、人前で歌って稼ぐようになる。まもなく「ココ」の愛称で親しまれるようになり、ハンサムで女たらしの父、父に従順で体の弱い母、歌唱力はないが負けん気の強い看板娘ココ・シャネルの一家は、旅回りの一座としてフランス各地をまわる。ある日、旅先のカレー屋でその味に感動したココ・シャネルは「私、このお店で歌うわ」と立ち上がって「ココリコ」を歌うと、店内はやんやの大喝采。やがて、娘の収入でカレー屋を買い取った一家は、ライブを見ながらカレーを食べられるようにステージをしつらえ、店内を大改築。一家は「ココ!」「一番!」などの声援を浴びる名高いカレー屋に。
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