2005年09月20日

アンリ・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)…フランス/画家、版画家

<成長の中止による成長>

●身体障害:トゥールーズ=ロートレックの場合

伝記映画『ムーラン・ルージュ』でも知られる(トゥールーズ=:以下略)ロートレックは、15歳のときから下半身の成長が止まってしまった。

1878年5月、13歳のロートレックは椅子から立ち上がろうとして転んだ。それだけのことで、左足の大腿骨を折ってしまった。

骨折が治るのはずいぶん遅かった。最初の事故から15ヵ月後にようやく、母親が付き添えば散歩できる、というところまで彼は回復した。そんなある日のこと、散歩を楽しんでいた彼は足を滑らせ、道端の溝に落ちてしまう。そして、今度は右足の大腿骨の上部を折った。

このときから、彼の両足の成長は止まった。

フランスでも有数の貴族の家に生まれた彼は、当時としては最高の治療を試すことができたが、どんな医者も彼の足を治せなかった。時を経るにつれ、上半身だけが普通の大人へと成長してゆき、そのアンバランスさは奇形的に際立った。大人になった彼は、グロテスクな小人となった。

それにしても、ロートレックはずいぶん些細なことで骨折している。成長が止まる、というのも普通では考えられない。彼の骨はもともと脆弱だったのだろう。

骨が弱くなった理由は近親結婚、つまり、彼の両親が名家のいとこ同士であることがもともとの原因だといわれている。このため、彼の骨は遺伝的な障害(多発性骨端骨化障害)を抱えていたようだ。骨折や成長が止まったのがその結果だとすれば、上流階級にありがちな落とし穴にはまっただけで、転落などは表面的な原因に過ぎないことになる。

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●人生のポイント

「もし自分が人並みの体だったら絵を描く代わりに狩猟でもしただろう」。後年友人に語ったとおり、ロートレックが画家となったのには、事故及び、それによる肉体的な障害が大きく関与している。

はじめの事故で思うように動けなくなった彼は、もともとデッサンが得意だったこともあり、リハビリ期間中、父と親しい狩猟画家のアトリエで絵を描いて過ごした。

2度目の骨折の後、彼はますます芸術活動にのめりこんでいった。成人しても子供ほどの身長しかなかったが、異様な外見をした彼を、アートの世界はのけ者にしなかった。

ロートレックが好んで描き続けたのは、社会の隅におかれた女給・踊り子・娼婦たちだった。彼は画材道具を片手に、退廃的なキャバレーやカフェ、売春宿に日夜入り浸った。足は短かいが、なぜか彼の陰茎は普通の人間と比べても異常に発達していた。性的能力の並外れた自分を、「大きな注ぎ口のついたコーヒーポット」と形容した彼は、キャバレー及びその周辺で生きる女たちと頻繁に肉体的交渉をもった。

彼がもっとも真剣に愛した女性は、ヴァラドンというモデルだった。彼女はもともと軽業師をしていたが、ステージからの落下による怪我で職を失っており、似通った経験が2人を結び付けていたのかもしれない。一生妻帯しなかったロートレックだが、ヴァラドンとは3年間交際した。

その後、ロートレックを蝕んだのは、梅毒とアルコールだった。晩年に彼は精神病院で入院生活を送る。このあたりは1890年代の作品で類似を指摘されるムンクの人生に通じるところがあるが、彼はムンクのように健全な生活を持ち直すことはできなかった。性的に奔放なだけでなく、大食漢で大酒飲みだったロートレックは36年の短い生涯を、身体的異常とは直接関係ない理由で終えた。

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● もし身体障害がなかったら

伯爵の称号をもつ父が趣味の狩猟をするのを憧れの目で眺めていたロートレック、成人すると、すばやい動きや表情の変化をとらえる才能を生かし、ハンティングを楽しむ。ほぼ百発百中の腕前で知られるようになった彼は、得意の絵は単なる趣味とし、日々遊び暮らす。こうして最初のうちは、あくまで上流社会に生き、いかがわしいと思われる場所には出入りしないよう気をつけるが、日本趣味が昂じて葛飾北斎や喜多川歌麿の署名入りの浮世絵、墨と筆などを取り寄せ始めたのをきっかけに、趣味におぼれるようになる。手持ちのものだけで飽きたらなくなった彼は、余るほどに豊富な金にものを言わせ、芸者や日本酒も産地から次々直送。ついにモンマルトルに「吉原キャバレー」を建立する。やがて芸者とアルコールから離れられなったロートレック、結局、徐々に身上をつぶしてゆく。
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2005年09月16日

オノレ・ド・バルザック(1799-1850)…フランス/小説家

<『喜劇人間』>

●破産:バルザックの場合

フランス最大の文豪バルザックは、30歳を迎えるまでに3度の破産を体験した。

26歳で彼が出版業を手がけたのは、「金さえ貯まれば好きなときに好きなことが書ける」と思ってのことだった。それまでにバルザックが匿名で書き記したものは、仲間と合作した通俗長編小説や実用書の類がほとんどで、文学的な価値のある代物ではなかった。持ち金のなかった彼は当時の愛人、ベルニー夫人から資金提供を受けて、ラ・フォンティーヌ、モリエールの全集を発行した。

が、思うように買い手がつかない。翌年には出版業を諦め、性懲りもなく印刷業を営み始める。この時点で負債はすでに7万2千フランに達していた。

次の年の9月。印刷事業はいつまで経っても軌道に乗らなかった。バルザックは、「印刷に加えて活字の鋳造を行えば、事態が一挙に打開するだけでなく、多大な収益があげられるはず」と考え、活字製作所を立ち上げた。

しかし、新事業はうまくいかなかったばかりか、すでに火の車となっていた印刷業のほうまで壊滅的な打撃をもたらした。半年後には印刷所、さらにその2ヵ月後には活字製作所も手放さねばならなかった。

こうして1828年、29歳のバルザックは、10万フランの債務者となっていた。

とはいえバルザックは多忙な中、着実な収益を上げられる執筆業のほうも一応続けていた。ただし、この頃の彼がどんなにいいかげんなものを書き綴っていたかという事実は、28歳の時に発行された『借金を支払い債権者を満足させる法』のタイトルからも推察できよう。

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●人生のポイント

20歳の頃、バルザックは年額1500フランの切り詰めた生活をしていた。その当時よりはるかに自分が貧しくなってしまったという現実を切り抜けるため、彼は創作活動に精力的に取り組んだ。

結論から言うと、その後もバルザックの負債は増え続けた。個人雑誌や新聞を発行しては失敗を繰り返し、購入した株は急落。議会やアカデミー会員に立候補すれば大敗。土地を買い家を建てれば崩れ、あるいは差し押さえられ、安値で他人のものと化す。製材業や銀の採掘にも手を出しかかったこともあるが、自由な時間と健康を損ねるだけに終わった。

要するに、彼が成功した仕事は、文筆のほかに何ひとつなかった。

死ぬまで彼を研究し続けた伝記作家シュテファン・ツヴァイクによると「バルザックは窮地に陥らない限り素晴らしい作品を書けない男」だった。確かに、破産前の彼の作品に、みるべきものはない。「幻滅」「あら皮」「ルイ・ランベール」「セザール・ビロトー」などの最大傑作は、失望と落胆の個人的体験から生まれた。フランス文学に『ナニワ金融道』と同じ主題を持ち込んだのも、彼が最初なのである。

ところで、浪費癖激しく、見栄っ張りで派手好き、マナーも趣味も容姿も悪い醜男として知られるバルザックだが、憎めない無邪気な性格と文才及び不屈の精神はたくさんの女性をとりこにした。彼の危機を救ったのは、いつも女性だった。

死の5ヶ月前、彼はロシアの大富豪ハンスカ夫人と結婚。底抜けに金持ちな妻を得て、彼の借金は最期にチャラになった。

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●もし事業家として才能があったら

出版業や株の仲買、不動産業その他諸々によりフランス一の金持ちとなり、資金がなければ諦めていたパイナップル園経営、財宝発掘もやり抜き、政財界を中心に影響力を与えまくる。フランス人は皆バルザックに倣い、泥水かと思うような濃いコーヒーをすすり、修道服を着て真夜中から明け方にかけて仕事をし、食事中は誰もが音を立ててナイフを舐めるようになる。絵画にも建築にも服飾にも彼の嗜好が蔓延し、「文学以外すべてフランス人の趣味は悲惨なもの」となる。「家庭の幸福には苦もなく身を任せてしまうでしょう」といったバルザック、晩年間近に幸せファミリーを築き上げると、突然いともたやすく引退。ここでフランス人は目を覚ます。
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2005年09月13日

エドワルド・ムンク(1863-1944)…ノルウェー/画家

<狂人だけがこの絵を描ける>

●精神病:ムンクの場合

『叫び』で知られるムンクが、治療が必要なほどにはっきりと精神を病んだのは、45歳前後のこととされる。

きっかけは恋愛のもつれから始まった。ムンクは35歳のとき、ワイン商の娘マティルデ(通称トゥラ)・ラルセンと出会う。彼女はムンクのモデル兼恋人となって、結婚を迫るようになる。

自由を愛したムンクは、生涯誰とも結婚するつもりがなかったので、結婚の提案を度々断った。トゥラはムンクの友人たちに協力を仰ぎ、恋人と2人きりになることに成功すると、ピストルを使って狂言自殺を演じる。あわてたムンクがトゥラの手からピストルを奪おうとしたところで暴発。弾丸は、ムンクの左手中指を吹き飛ばした。

裸体のトゥラをモデルとした『罪』は、事件の前の年に作成された石版画だ。わずか二色で刷られたこの画は、見る者に複雑かつ壮絶な恐怖感を感じさせる。これを作りながら、ムンクはすでに来るべき何かを予感していたようにも思える。傷を負った彼に対し、仲間たちの多くがトゥラの味方をしたので、ムンクは大勢の友人と喧嘩になり、絶交した。

やがて、ムンクの精神は異常をきたし始める。すべての人間が自分に陰謀をたくらんでいるのではないかという強迫観念や幻覚に襲われ、アルコールに溺れる。ボロボロになった彼はあてどなく旅し、神経性の病に倒れることもあった。旅先のコペンハーゲンで3日3番痛飲した彼は、ついに自ら精神病院に入院する。

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●人生のポイント

「入院で健全を得た代わり、天才を失った」といわれるムンクの絵は1907〜9年を境に、同一人物の作品とは思えないほど大きく変化している。彼が病院生活を過ごしたのは、45〜46歳の時であり、この時期が彼の入院期間に当たる。

つまり。精神病になる過程でなく、治療の段階で彼の絵は変わったのだ。『病める子』『叫び』『マドンナ』『不安』といった、人間の内面世界を視覚化することで衝撃を与える、いわゆる「ムンクらしい」作品は、入院以前に集中している。

精神病院での生活は快適で、外出も自由だったので、ムンクにとってそこはよい仕事場となった。「自己の体験を描くことが薬になる」というパトロンの言葉どおりに彼は描き、病から脱していった。

退院後、ムンクの作品は「ムンクらしくない」ものになった。「苦しみを取り除いてしまえば、私の芸術は破壊されてしまう」「芸術は自然の反対である」「芸術作品は人間の内部からのみ生まれる」と述べたはずのムンクは、自らの発言をないがしろにするかのように、朗らかで陽光が溢れ、生命への賛美に満ち、幸福を感じさせる健全な絵を次々と仕上げ、自然物のみを描くことも多くなった。

これらの絵は「駄作」とされがちだ。が、退院後の7年間を、ムンクは生涯でもっとも幸せと安らぎの中に生きた。

入院以前の彼を「死におののく異常感覚者扱いしすぎ」という意見は一理あるだろう。それでも、代表作『叫び』の油絵版に記された、「狂人だけがこの絵を描ける」というムンクの言葉と、入退院により彼の絵が一変したという事実は揺らがない。

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●もし精神病にならなければ

事件後に精神病が発症しなかったら:左手のなくした箇所を題材にした『指』、その後の気ままな放浪を描いた『旅』を完成。『叫び』『指』『旅』は三美作と呼ばれるようになる。精神病になった妹の気持ちをヒトゴトのように感じつつも、彼女を題材にした作品を矢継ぎ早に発表。常に人の体から妙な色の人魂みたいなものが記されたこれらの作品は、以前完成させた「生命のフリーズ」の続編と「精神のフリーズ」としてまとめられる。

はじめから彼にまったく狂気がなかったら:彼の作品は「狂気の沙汰」といわれて批評家たちに大顰蹙を買うことも、ナチスに頽廃芸術の烙印を押されることもなくホドホドの評価を受ける。「よくありがちな画家」としてテキトーな活躍ぶりをみせて彼が一生を終えると、作品も彼自身も時代とともに忘れ去られる。munch.jpg
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2005年09月09日

マイケル・ファラデー(1791-1867)…イギリス/科学者

<最大の発見>

●学歴なし:ファラデーの場合

鍛冶屋の息子ファラデーの家族は貧しく、彼が9歳の時、一家は生活保護を受けねばならなかった。

12歳になったファラデーは、小学校すら出ないまま製本屋の配達人として働き始めた。翌年には年季奉公人となり、製本技術を身につける。勤勉なファラデー、作業の手を抜くことはなかったが、仕事の傍ら、店にある科学書や百科事典などで科学の知識を吸収していく。さらに暇を見つけては、近所の公開講座に出かけ、独学で器具を作り科学実験を行った。

ファラデーが21歳の時、製本屋の常連客が、科学者ハンフリー・デーヴィーの公開講演に彼を聴講させる。このときの感動を、ファラデーはどうしても忘れられなくなってしまう。半年後、7年間の年季奉公を終えた彼は、製本職人として就職しつつも、講演の記録ノートとともにデーヴィーに手紙を出す。こうして彼と会見を果たすが、返事は「今は助手の空きはない」ので雇えない、とのこと。

しかし、数ヵ月後に専任の助手が辞職。デーヴィーはファラデーを雇い、王立研究所の屋根裏の2部屋に彼を住まわせた。ファラデーは結婚後も夫婦でここに暮らし、46年間寝泊りした。

成功後は数え切れないほどの大学から名誉博士号を授かったファラデーだが、学歴ナシ子供ナシ家ナシ。王立協会の会長職も称号も勲章も断りまくったが、67歳のとき、女王の与えた住居に妻と移住。もっと早けりゃジュニアくらいいたかも。

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●人生のポイント

学歴のないファラデー、生涯数学は苦手で、数式化ができなかった。

おそらくはそのために、直感による彼の発想は素早く鋭かった。「ファラデーの法則」で知られる電磁気学での分野のみならず、ひとりの人間とは思えないほど多岐にわたる業績を彼は生んだ。マクスウェルをはじめとする多数の科学者たちは、ファラデーの残したイメージを発端に数学的基盤を組み込み、功績を得た。

学校でなく公開講座で学んだファラデーの事業に「子供でもわかる」ことを目標にしたクリスマス講演がある。これは現在も人気の公開講座で、今や古典となった『ろうそくの科学』(角川文庫)は、ここで話したファラデーの講演内容を修めたものだ。

ちなみに、素人にわかりやすい数式の少ないファラデーの著書は、後に小学校中退者のエジソンを発明王に導いている。

それにしても、笑気(一酸化二窒素)の麻酔性や七元素を発見し、電気分解法を確立したデーヴィーは、当時トップクラスの著名科学者。そんな彼がなぜ、無学な製本技術者なんてのを雇ったか?

デーヴィー自身、若い頃は薬剤師として年季奉公をしていた。友人たちに研究所の職を世話してもらったことで科学者になった自分の過去を、ファラデーに重ねたのかもしれない。

その後、恵まれた環境で実験に没頭したファラデーはトントン拍子に大成功。いつしか嫉妬し始めたデーヴィー、彼の出世を邪魔しようともしたが、晩年は「私の最大の発見はファラデー」と発言。んー、オ・ト・ナだ。

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● もし学歴があれば

学校教育ですっかり数式に強くなった計算高い男ファラデー、電磁気学の理論を次々と公式化し、マクスウェル出番なし。禁欲主義な宗教を信じる貧しい鍛冶屋の娘でなく、大学在学中に知り合った上流階級の娘と結婚すると、特許を取得。発電機製造業やめっき産業からの収入を得て大もうけ。傾きかかった王立研究所の財政を立て直し、王立協会会長長の座もナイトの称号も与えられるがまま手中に収める。クリスマスの公開講座は思い切りド派手にし、聴講者全員にキャンドルつきの豪華なクリスマス・ケーキを振舞ったため、毎年大盛況となる。ただし、彼の講演内容「脂肪族鎖式飽和炭化水素CnH2n+2の科学」は難解な数式と計算だらけで素人にはほとんど理解されない。
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2005年09月06日

ウィンストン・チャーチル(1874-1965)…イギリス/政治家

<大逆転>

●受験失敗:チャーチルの場合

チャーチルはハロー校在学中に2度、士官学校の受験に失敗した。

そもそも彼が名門パブリック・スクール(全寮制の特権的私立中等学校)ハロー校に合格できたのからして、蔵相を務めた父ランドルフの息子を学校側が拒めなかったから、というのが定説だ。入試のラテン語では、「1問も解答できず、ただ答案用紙にインクをこぼしただけ」だったのだから。

入学後はラテン語を免除される劣等組に入れられたチャーチルだが、父に促され、陸軍志望者向けの特別クラスに入る。ここもハロー校の他の学生から「劣等生の天国」と呼ばれるクラスで、彼の成績は停滞したままだった。士官学校から2度も不合格の通知を受けたチャーチルはロンドンの予備校に送られ、ようやく陸軍師範学校騎兵科に合格する。

が、点数が低かったため、父の希望する歩兵科でなく、騎兵科にまわされた。騎兵科は成績不良の者、格下の軍人への道というだけでなく、学費も歩兵科よりずいぶん高くついた。

そんなわけで、チャーチルから騎兵科合格の知らせを受けた父は落胆し、怒った。今と同じような怠惰で無益な生活を止めなければ、「みすぼらしくて不幸で無益な生活に転落してしまうことと確信している」と息子をひどく叱責した。すでに梅毒にかかっていた父は、間もなく廃人のようになり、2年後、息子の活躍を予想できぬまま亡くなった。

当時は確かに彼だけでなく、まわりの誰もがチャーチルを単なるバカだと思っていた。

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●人生のポイント

予備校通いの直前、チャーチルは鬼ごっこをして橋から10mほど転落。2日間意識不明となり、破裂した腎臓を治療するため、2ヶ月を病床で過ごした。ロンドンの自宅で療養しつつ、自宅に食事に招かれた父の友人である政治家たちに顔をあわせ、下院を傍聴して議会闘争を目撃し、政治面の刺激を受けた。

この数ヵ月後、スイスを旅行したチャーチルは、湖で小さなボートから飛び降りた。強い風にあおられたボートは、必死に泳ぐ彼の手から離れた。死の危険を感じながらも、すんでのところで助かった彼は、後にこの体験を短編小説として発表した。

陸軍学校入校前の短い期間に、立て続けに死を意識する事件を起こしたことは、傍目にはただのアホな行動でも、チャーチルを絶体絶命の状況に屈せぬ男にした。成人し戦場に出てからも、彼は意図的に危険に身を晒し、勇敢な人物という名声を得ようと努め、そのいくつかは見事に成功した。

1899年、ボーア軍の捕虜となったチャーチルは、不可能に近い脱走を遂げた。彼の帰還は熱烈な歓迎で迎えられ、「捕虜収容所から脱出した英雄」という肩書きと、選挙費用となる著書印税と講演収入が生まれた。保守党下院議員にすんなり当選した彼は、25歳の若さですでに、他の候補者の応援演説をしてまわるほどの人気を得ていた。

その後も「大ピンチ→大逆転」は、失敗の多い彼の切り札となった。没落し政治を離れた後に首相となり、負け戦に米ソを巻き込んで勝利した。

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●もし最初から合格していたら

おもちゃの兵隊遊びが大好きだったチャーチル、陸軍師範学校を優秀な成績で卒業すると、偉大なる父がすっかり梅毒病みで廃人同様の尊敬できない姿になっているのを目の当たりにする。これを機に、父を通じてちょっぴり憧れていた政界への興味が失せ、貴族階級が政治家として大成する必須条件のオックスフォードもケンブリッジも出てない自分が政治の道を目指したところでたかが知れてる、せいぜい軍人として生きるのが関の山、と自らに言い聞かせる。間もなく己の文才に気づき従軍記者となる。本来話し好きの彼だが、「s」の発音が苦手なため、予定外のことを人前でしゃべるのがだんだん億劫になり、自宅に閉じこもって作家として大成。ノーベル文学賞はやっぱり受賞。
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